まちのこぼれ話〈二子・瀬田・諏訪〉
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昔は旦那衆がいて文化が育ってたよね
神輿が町を一回りしてくると、200万くらいご祝儀がもらえたんだよ。
表通りで商売やっていたら、祝儀はずむのは当たり前のことだったからね。
子どもがB29の音を聞き分ける、そんな時代でした
多摩川の河原でのんびりしていても頭上にB29が飛んで来ました。
B29は爆弾だとか焼夷弾だとかをたくさん積んでいるので、ゴロ~ンゴロ~ンっていう音が飛行機の音のなかに入ってくるのです。
六ケ村堀ではお洗濯のすすぎもやっていましたよ
六ケ村堀も結構水がたくさん流れていて、お洗濯のすすぎはそこに持っていってやっていました。 二ケ領用水ができてからはそこで洗濯物をすすぎました。そちらは水の量も多く、流れも強くて、しっかりつかんでいないと洗濯物を流しちゃうこともありました。
戦争が終わって何もかもが新しい教育でした
戦後、一番子どもが多いときでしたから、小学校も2部制でした。
給食は、学校まで馬車がコッペパンを運んできていました。
築何百年の家屋の中でちゃぶ台を囲みました
40年前までは、何百年も経った家屋の居間で、家族でちゃぶ台で食事をしていました。
台所は土間で、中学生になってガスが引かれるまで竃で調理しました。
砂利道の大山街道を牛車が肥引きしてました
6月ころになると、夜が明けるのが早くなりますが、そうすると牛車をひいて、
元石川とかね雑色だとか、この奥の方から東京へ「肥引き」をしていました。
昔の多摩川は本当にきれいだった
昔の多摩川がいかに美しかったかは、その頃小学生たちだった自分達が一番よく知ってますよ。
6月の鮎の解禁、夏には花火が上がり、屋形船での宴会など上品な遊びが行われていました。
大きなお釜も実際に使っていたんですよ
染物屋が、染色をしたり、醤油屋が大豆を煮たり、その他、クリーニング屋、
はては野戦病院が手術用のメスを煮沸消毒に使ったそうです。
砂漠の中にポツンと校舎があるみたいでした
上の子が3年のとき、府中県道を挟んで、坂戸小学校ができたので、そちらに転校することになりました。当時は、校長室もなく、初めて校舎を見たとき、砂漠の中にポツンとあるような気がしました。
写真館を継いだのは自分の宿命だと思ったから
写真の修整技術を学ぶために、1週間に3回、目蒲線で蒲田の写真屋に通いました。
最初から写真が好きで継いだのではなく、高校3年で進路を考えたときに自分の宿命だと思い決めました。
多摩川からの帰り道、お腹が空けば…
暑くてもアイスなどないから、お腹が空けば梨畑から梨をいただきました。
きゅうりのときは、半分に折って汗だらけの顔を一回りさせて、塩味をつけて食べました(笑)。
二ケ領用水を泳いで学校から帰りました
二ヶ領用水ではよく泳ぎました。1m50㎝の深さで、流れがとても早かったです。高津小学校の頃は、朝は普通に歩いて登校するのですが、帰りは1人がカバン持ちになり・・・