まちのこぼれ話〈二子・瀬田・諏訪〉
砂漠の中にポツンと校舎があるみたいでした
木村 俊道さん
(きむら としみちさん)
昭和12年生まれ 75歳
川崎市高津区二子在住
北海道から川崎に移住し、
小学校のPTAや子ども会、町内会など、二子地域のための活動を続けてこられた木村さんのお話。
(平成25年9月26日)
高津区にお住まいになったきっかけは
昭和31年、高校卒業後、北海道の日高から上京しました。札幌に就職口がありましたが、それを振きってきました。
高級住宅地と聞いていた世田谷区に憧れて住みたかったのですが、家賃がとても高くて無理でした。その世田谷に川を挟んで近いということで、なんとなく二子に住みました。
もちろん、友だちなど1人もいませんから、よそ者として恥をかきたくない一心で無我夢中で働きました。信用をつけることが大事と頑張りました。そのせいか、勤務先の社長に可愛がられ、また、地域の人とも交流が深まり、その後いろいろと地元のことも頼まれるようになりました。
小学校のPTA会長や子ども会会長などを経て、現在は二子第1町内会長を務めています。
ご住所が5丁目ですが、第1町内会になったいきさつは
そうなんです、このへんは5丁目なのですが、第一町内会に属しています。駅が高津にありましたから、昔は駅に近い場所から1丁目、2丁目となり、その地番の若い所から町内会に分けていきました。
昭和24年に町会ができ、1番最初は第4町内会ができました。その後、いきさつはわからないのですが、第4、5町内会が離れているので2つで「新生会」となったこともあったと聞いたことがあります。
その後、溝口と二子が入り組んでいるので町内会の区割りについて話し合ったときがありました。力関係がからみ、大変でした。町会名はそのままにしてほしいという声もあったりで、結局決定するまでに2、3年かかりました。その結果現在、溝口の住所でも、第1町内会の住民がいます。今、考えるとなんだか、どちらでも良かったのではないかという気もしますが、やはり何百年も代々住んでる人たちにとっては「変わる」というのは一大事だと思いますよ。
私も、今住んでるこの二子の町名が坂戸になると聞いたときは、反対しました。あまりにも、坂戸の中心から離れていると思いましたから。
小学校のPTA会長時代のお話を
上の子どもが東高津小学校に入学したのち、PTAの監査を頼まれ1年引き受けました。その子が3年のとき、府中県道を挟んで、坂戸小学校ができたので、そちらに転校することになりました。坂戸小学校へは、東高津小学校と久本小学校からそれぞれ低学年の200名余りが移りました。1学年は2クラスで、1クラスは40名でした。当時は、校長室もなく、初めて校舎を見たとき、砂漠の中にポツンとあるような気がしました。(PDF版の抜粋です)