まちのこぼれ話〈二子・瀬田・諏訪〉

六ケ村堀ではお洗濯のすすぎもやっていましたよ

佐々木 郁代さん
(ささき いくよさん)

昭和5年生まれ 83歳 
川崎市高津区二子在住

戦前の二ヶ領用水の様子や、
女学校時代に迎えた終戦の記憶について、
民生委員も長く務めた佐々木さんにお聞きしました。
(平成25年12月6日)

佐々木 郁代さんの写真

ご自身について教えてください

 

 生まれたのは厚木です。川崎に転居してきたのは昭和9年の3月、私が3歳のときです。
 当時、父親の一番上の兄である、私の叔父が川崎で小学校の校長先生をしておりましたので、教員だった両親をこちらに呼んでくれたのです。父は橘青年学校、母は橘樹郡高津尋常高等小学校(現高津小学校)に勤めました。
 家は、現在の二子5丁目。昔は丁目がなかったので、二子521番地だったと思います。5軒並んだ借家の、はじから2軒目の家でした。この当時にしたら文化住宅というのでしょうか、玄関から左右に四畳半、その奥に八畳、廊下があって、突き当たりがお手洗い。お台所とお風呂場があって、結構大きなお家でした。

佐々木さんの子どもの頃の住まいの前で撮影された白黒の家族写真 

小学校時代はどんな思い出がありますか?

 

 私は昭和12年、高津小学校に入学しました。そのときは「高津尋常高等小学校」です。1クラスは50人くらいで1学年4クラス。「松」「竹」「梅」「桜」というクラス名です。男女は別々でした。5年生になったときに5クラスに増えました。
 入学した昭和12年には、支那事変がはじまり、昭和16年、4年生のときに大東亜戦争がはじまりました。
 学校で習ったことで今でも覚えているのは、教育勅語を暗記させられたことです。みんな諳んじて言えるように、覚えさせられました。「朕おもうに、我が皇祖皇宗国をはじむること宏遠に‥」とか、なんとか(笑)。もう70年も昔ですから忘れてしまいましたけど。

家の様子や周りの様子はどうでしたか?

 

 家のそばには六ケ村堀が流れていました。大人でも飛び越せないような幅でした。近所には住宅もありましたけど、家の前も田んぼ、家の裏も田んぼでした。
 昔はこの辺りの農家も、堀から田んぼに水を引いていましたが、田植えの頃は堰を作っちゃうんですよね。そして、自分の田んぼに水がくるようにするんです。そうすると下流の方に水が流れなくなってしまうので、鍬を担いで堰を壊しに下流から農家の方がやってくるんですよ。で、堰を壊して帰るんです。そういうのを何回か見ました。
 日本光学がありましたでしょ。あれが国の大事な軍需産業で、レンズを磨くのに水が必要だということで、ニケ領用水が再整備されていったと聞きました。この辺りは、曲がりくねっていて、水量もそんなに多くなかったのですが、完成後は水が多く、流れもはやくなりました。
 そして私の住んでいるところのそばを通っていたのが六ケ村堀。
 六ケ村堀も結構水がたくさん流れていて、お洗濯のすすぎはそこに持っていってやっていました。二ケ領用水ができてからは、そちらの方が水量も多いですし、水辺に降りられるようにあちこちに階段もついていて、今も残っているところがちょっとありますけど。その階段を降りて、それで、そこで洗濯物をすすぎました。そちらは水の量も多く、流れも強くて、しっかりつかんでいないと洗濯物を流しちゃうこともありました。(PDF版の抜粋です)

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