まちのこぼれ話〈二子・瀬田・諏訪〉
戦争が終わって何もかもが新しい教育でした
山寺 初江さん
(やまでら はつえさん)
昭和2年生まれ 86歳
川崎市高津区諏訪在住
戦後間もなくの高津小学校で
教員を務めた山寺さんのお話です。
(平成25年8月9日)
ご自身について教えてください
昭和24年2月のはじめ。結婚をして川崎市に来ました。それまでは福島で小学校の教諭をしていました。
高津でも先生をしようと思いまして、役所に行きましたら「県が違うからテストします」って言われ、その場で採用試験を受けました。
試験は教育勅語の内容が主で、徳器成就だとか、そういう基本的な問題でした。「これ読んでください。これは、どこに出ていましたか」など訊かれました。試験終了後に、その場で川崎市立高津小学校教諭を命ずるという辞令をいただきました。
その当時、高津小学校にイシドウ先生という方がいらして、その方が結婚されて辞められるのでちょうど空きがあったので、運良く採用され、高津小学校の教諭になりました。
当時の小学生について
はじめて受け持ったクラスは1年生でした。あの頃は、学校へ来るのにも親がついてきたり、親がいないと泣いてしまう子がいたり、今の子とは違って幼稚な子もおりました。
その当時高津小学校は、子どもの生まれ月でクラスを編成していて、私が受け持ったクラスは3月生まれが中心でした。だから、4月生まれの子とほぼ1年違うわけで。それで、体も小さくて、子どもっぽいと言うか、そういう子が多かった気がします。
当時の給食について
給食は、学校まで馬車がコッペパンを運んできていました。脱脂粉乳は先生方が交代で、大きな鍋で沸かしていました。3~4年経ってから、鯨のカツなどおかずがつくようになりましたけど、それまではパンにつけるマーガリンなどもなく、記念日の特別メニューもなく、コッペパンと脱脂粉乳だけでしたね。
当時の授業内容は
戦争が終わり、今までの教育を改め、その土地にあった新しいカリキュラムを作らなくてはいけなかったので、しょっちゅう研究授業をやっていました。川崎市内の先生が集まり、授業を見ていただきました。
国語と算数とに分かれて先生方が研究授業をします。授業を見て「ここはこうしたほうが良い」「ここはこうしよう」など、話し合ってカリキュラムを作っていきました。それを元にして、しばらく授業をやって。それから、また、いろいろ制度が変わって…。
あの頃は、何もかもが新しい教育でしたから、お年を召した先生方は大変なこともありました。新教育になる前は、割合穏やかに、のんびりとされていたのでしょうが、世の中がいろいろ変わっていきましたから。(PDF版の抜粋です)