まちのこぼれ話〈梶ヶ谷・末長・新作・千年・千年新町地域〉

 

何軒かの地主さんが土地を提供して「市民プラザ通り」が完成したのです

宮田 良辰さん
(みやた よしとき さん)

大正15年生まれ 87歳
川崎市高津区新作在住

市議会議員や町内会長として地域のために活動されてきた宮田さん。
市民プラザ通りができた経緯やまちの風景、戦争のことなどを伺いました。
(平成26年8月27日)

宮田 良辰さんの写真

当時の町の風景は?

 

 新作八幡宮は高い丘の上にあって「高八幡」と呼ばれていました。そのご神木に上ると遠く六郷橋までわかりましたね。今のように武蔵小杉の 大きなマンションもなかったから、よく見えました。
あの頃は新城駅まで家は一軒もなかったし見渡す限り「田んぼ」だった。そのおかげで「田んぼ」が貯水槽になって水を蓄えてくれたから、 大雨が降っても道に水が溢れずに済んだということだよね。後で新城駅の方に日本光学の社宅ができて新作第二町会になっても「田んぼ」 の方がずっと広い面積でしたね。
 今の「市民プラザ通り」はもともと「池の谷戸」につながる行き止まりの道でね。「池の谷戸」には「おかま」と呼ばれる場所があって 砂を吹きあげながら水が湧き出していてね。「市民プラザ通り」にも関係する話だけれど、我が家には柿の木が5本あってね。 私は5人兄弟で、父が子供の成長を祈って一本一本植えてくれたそうです。兄弟仲良く「これは僕の柿の木、あれはお前の柿の木だ」なんて 話したりしてね。でも家の前に道路ができることになって、5本とも伐採してしまいました。うちだけでなく何軒か個人の地主さんが土地を 提供して今の「市民プラザ通り」が完成したのです。

戦中・戦後の記憶

 

 橘小学校を卒業して川崎工業学校の電気科に進学しました。技術を身につけたかったからです。同級生で予科練に行く人もいましたが、 私が行きたいと言っても親父に反対されました。学生時代は勤労動員で富士電機に行きました。川崎工業学校を卒業し19歳で徴兵検査を受け 「甲種合格」しました。教育とは凄いもので、あの時は「やった、戦争に行くぞ!」って思いましたね。お国のために働ける、って思ったら 本当に嬉しかった。友達や同級生はその時には既に志願して戦争に行っていましたから。
 そして栃木県にあった中島飛行機宇都宮製作所に配属になったのです。当時は陸軍の軍用機を作っていました。電気科出身ということで技術 を生かした仕事に就き、後には重役室に配属になりました。しばらくして終戦になり、私はそこで天皇陛下の玉音放送を聴いたのです。
 終戦後、宇都宮の航空隊からトラックに乗って雨の中を走り続け、何とか新作の我が家にたどり着きました。「何ていう気持ちかなあ。 とにかく、うちまで帰らなくては」と思って必死でしたね。

スポーツで地域貢献

 

 スポーツとの出会いは野球と相撲だったね。野球は戦時色が濃くなると英語が使えないから、ルールやポジションもみんな日本語にして 試合をしたのを覚えているね。
相撲は子供の頃から大好きでね。おじさんがすごく強かったから、いろいろ教えてもらってね。工業学校の時も相撲部で活躍したのですよ。 あの頃、うちの庭に親父が土俵を作ってくれて「すもう大会」を開いたわけです。それが評判を呼んで遠くからの参加者もあって、結局その大会 は終戦まで続いたね。
 私だけでなく子供たちもスポーツが好きで、学生時代から長男はゴルフ、次男は剣道に打ち込みました。今ある宮田剣道場は昭和46年に 完成したのです。ちょうど高津警察署の今の建物ができたのと同じ年だね。警察からも「剣道場でぜひ稽古したい」という申し出があって、 「どうぞお越し下さい」と話したら、警察官が護送車に乗って大勢来たものだから、あの時はびっくりしたね。(PDF版の抜粋です)

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