まちのこぼれ話〈梶ヶ谷・末長・新作・千年・千年新町地域〉

 

昔の結婚式は、家で祝宴をあげました

村田 照子さん
(むらた てるこ さん)

昭和2年生まれ 87歳
川崎市高津区梶ヶ谷在住

神奈川県相模湖町から村田家に嫁いだ村田さんに、
結婚式のこと、子育てや生活の様子などを伺いました。
(平成26年8月4日)

村田 照子さんの写真

この地に嫁いだきっかけは?

 

 私が、この家に嫁いだ年は昭和27年、26歳のときでした。実家は神奈川県相模湖町で、父親が小学校長だったので私も先生をしてました。 私の小学校時代の恩師と主人の姉の夫が同じ学校に勤めていた関係で、この結婚の話が来ました。勤務していた小学校の父母たちは 「先生、そんなに遠くへ行ってしまうの」と心配していたようです。特に生徒の父親で、宮崎台にあった62部隊に配属されていた人から 「なぜ、あんな田舎に!」と言われました。でも、夫の姉が仲人役にもなってくれて決意しました。
 嫁いで思ったのは、実家の相模湖町も梶ヶ谷も山は山ですが、大きな違いは相模湖町のほうが観光地化されていて、ここは本当に田舎だ ということでした。
 昔の結婚式は、家で祝宴をあげます。当日は1日がかりでした。まず、村田家からお仲人など7人が、実家に迎えにきます。 一緒に実家で門出の祝宴を済ませ、実家側から髪結いさんも共に、一行が村田家に行きます。そのとき、小学生の教え子たちが 駅まで送ってくれたことが忘れられません。
 そして村田家に着いて、夕方から宴会が始まります。髪結いさんに手伝ってもらってお色直しもしましたよ。よくテレビで花嫁が 白無垢で式をあげてますが、私は江戸褄でしたね。そして暗くならない夕方5時頃でしょうか、遠い実家側の人々は引き上げていきます。 それから、本格的な宴会が始まり夜中まで続きます。近所へのお披露目ですね。夕方から始まるというのは、嫁が暗くて帰れないという 意味があるのかもと思いましたよ(笑)。そして、最後は、嫁が来客に普通にお茶だしをして、結婚式が終わりました。ほとんど、 何も食べられませんでしたねえ。

交通の便はいかがでしたか?

 

 とにかく、ここに嫁いだときは、交通の便が悪くてびっくりですよ。ここから歩いて溝口まで40分、そこからやっと南武線が通っていました。 バスに乗ろうとしても20分は歩きました。バスも1時間に1本です。山坂の傾斜があるので、「ねもじり坂」あたりになると、バスの運転手が 「みなさーん、降りてくださーい」と言って、バスの後ろから乗客が押し上げることもあったんですよ。
 道路も梶ヶ谷から馬絹まで、狭いのなんのって。洗足、久本と歩いて山を越えて溝口にたどり着くのです。当時、高津小学校まで毎日、 ズックで通いました。時々、川崎方面の小学校に出張などがあるときは、ズックで行くのが恥ずかしいので、教壇の下にハイヒールを備 えていました。
 よく男性教諭から「梶ヶ谷は電気がつくの?」とか、「梶ヶ谷は僻地だよなあ」とか冗談を言われてましたっけ。

当時の教育・子育てはどのような感じでしたか?

 

 子どもが幼稚園に通わないのは当たり前でした。なぜなら、農家の親たちは、田んぼに子どもを連れて行けば、そこで親子一緒にいられる わけですから。
 私は、たまたま教育に携わっていたので、自分の娘たちを幼稚園に行かせただけです。
 農家の子どもは農繁期には下校すると女の子は家の手伝いや子守り、男の子は高学年になると畑仕事が待っていました。私も家に帰ったら、 まったく普通のお母さんでした。自分の子どもたちに勉強を教えるなんてことはしませんでしたね。当時、梶ヶ谷から野川小学校に通ってい たのは、男女とも1学年に5、6人でした。
 昭和30年代のこの地域の教育事情は、あまり良いとは言えませんでしたね。大学出身者はほとんどいませんでした。どんなに裕福だろう とも関係なく、家を継ぐということに重きが置かれていました。家の仕事の手伝いがそれほど大変だったのです。現在90歳代の方が、 「昔、畑で鎌を持って働いていたとき、ふと顔をあげると、道行く女学生が見えて涙が出るほど羨ましかった」と言っていました。(PDF版の抜粋です)

土地区画整理前の梶ヶ谷の白黒写真(昭和40年)

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