まちのこぼれ話〈二子・瀬田・諏訪〉

多摩川からの帰り途、お腹が空けば…

小池克利さん
(こいけ かつとしさん)

昭和18年生まれ 70歳 
川崎市高津区二子在住

大山街道二子地区で旅館や酒屋を営んだ
小池家11代目、
現在は町会長もつとめる小池さんのお話。
(平成25年9月29日)

小池克利さんの写真

ご自身と地元のつながりは

 

小池家の11代目になります。本家は亀屋という旅館を経営していました。2000坪あり、明治天皇の皇后がお泊りになったと聞いています。うちは、分家で祖父が米屋です。昭和16年から酒屋になり、自分が中学生のときには、燃料なども取り扱っていました。練炭、炭団、豆炭などを従業員が自転車にリヤカーを繋いで運んでいるとき、子どもだったのでそのリヤカーに乗らせてもらいました。うちの屋号は「新家」(しんや)と言い「しんやのボクちゃん」と呼ばれていました。
 川崎で3番目に古い高津小学校卒業後は、東京の中学に通いました。小学校の仲間はだいたい西高津中学の1期生ですが、その親しい彼らに呼ばれて今でも、ここの中学の同期会には参加しています。
 19歳のときに父が亡くなり、店を継ぎました。現在、酒屋は閉めマンションに立て替え、二子第3町内会長を務めています。

子どもの頃の遊びは

 

とにかく冬でも外でドッジボールでした。授業の休み時間は5人対5人で馬飛びです。体を折り曲げ、馬の背になって1列を作り、そこに相手側が飛んできます。特に弱そうな子の上にドンと跳んで列をくずすのですが、誰もケガをしなかったなあ。今なら骨折かもしれません。
 ベーゴマ、けん玉はもちろん、缶けり、凧揚げなんかもありました。でも、何もなくても遊べましたっけ。自転車のタイヤのゴムを竹の棒でクルクル回して走るだけの「リム回し」でも充分楽しかったです。

明治期の亀屋旅館の白黒写真

プールはありませんから、多摩川のほとりにある製薬会社の前で泳ぎました。魚釣りに関しては、小学校のときは「あんま釣り」と言って小さな竹ざおを使って魚の鮠(はや)を獲って食べました。中学になると、投網を子ども用に作ってもらい、鮎を獲りました。今では禁止ですよ。
 暑くてもアイスなどないから、お腹が空けば梨畑から梨をいただきました。きゅうりのときは、半分に折って汗だらけの顔を一回りさせて、塩味をつけて食べました(笑)。昔は、今はない桃畑もありました。
 神社には、紙芝居屋が来ていました。そこで水アメやバクダンを食べました。バクダンとは、お米が弾けてできるお菓子で、今で言うシリアルでしょうか。(PDF版の抜粋です)

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