まちのこぼれ話〈二子・瀬田・諏訪〉

築何百年の家屋の中でちゃぶ台を囲みました

小黒 久男さん
(おぐろ ひさおさん)

昭和16年生まれ 72歳 
川市高津区諏訪在住

地名「高津」の由来の昔話にも登場する、
小黒さんのお話です。
(平成25年11月27日)

小黒 久男さんの写真

ご自身のプロフィールを

 

 この地で生まれ、育ちました。昔、ここは橘樹郡高津村と言いました。当時、幼稚園はこの辺にありませんでしたから、小学校からです。3年生まで高津小学校、4年生のときに東高津小学校に移りました。高津中学から県立川崎高校、東京の大学に進学、その後65才まで出版会社に勤務しました。現在は民生委員や老人会会長などを務めています。

小黒家の歴史を

 

 小黒家の先祖は諏訪左近頼親(よりちか)と言われてます。元々は諏訪馬のすけ(うまのすけ)が小田原北条氏の家臣で有名でしたが、一族が彼を頼って鶴見区にあった寺尾の小黒という地名に兄弟で住んだと言われています。この頼親(よりちか)の長男が小黒伝八で、次男が材木屋でした。江戸時代に材木屋から分家して、私の父がこの家の養子に入りました。

どんなご家族でしたか

 

 大正4年生まれの父は、ほとんど人生を戦争で費やし、生き抜いた感じです。近衛兵として入隊、終戦のときに下士官で帰ってきました。敵と戦った話はしませんでしたが、戦地で猿を飼ったことやイギリスのウイスキーが美味しかったことなどを話してくれました。戦後は、「日通工」に勤務しました。
 母は、東京の女子校出身で、お嬢様のような感じでしたが、体が弱かったです。私が4歳のときに母と防空壕に逃げた記憶は鮮明です。真っ赤な焼夷弾の色は強烈でした。か弱い母が父の帰りを待ちながら、子どもを育てたのは大変だったと思います。40年前までは、何百年も経った家屋の居間で、家族でちゃぶ台で食事をしていました。その家は現在住んでるこの家の隣りで、父が亡くなると相続税の関係で川崎市に買い上げてもらい、現在高齢者施設になっています。
 10年前までは、屋号が「菓子屋」と言いました。江戸時代の自給自足の時代に、甘いものを売るということは、現金が入りやすかったのです。昭和5年くらいまで、川崎大師にお菓子を卸していました。2代前の家には、飴切り包丁などが残っていて、飴職人も来ていたそうです。二子と武蔵小杉の法政通りに昭和の終わりまで小黒家が関係した「オータニのアメヤ」がありました。当時の屋号は、その他にも「傘屋」「桶屋」「樽屋」「瓦屋」など、商売に応じてありました。

当時の町の様子は

 

 昭和40年頃までは、二子新地、高津、諏訪側の消防署のほうは梨畑でした。今の二子新地駅前のメインストリートは人が1人通れるだけの道幅でリヤカーも無理でした。高津石油のところもあぜ道でした。桃畑は、多摩川と諏訪の後ろ側までありました。地元の子は、畑から傷ものの果物はもらえたので、あえて失敬はしませんでしたねえ。柿やビワもふんだんになっていたので、これはかってにもいで食べてました。このへんも柿の木が20本以上立ってましたから、商売にもしてませんでした。父の作る渋柿の焼酎漬けはとても美味しかったです。
 戦前は綺麗な果実園の景色でしたが、戦後は果物ではお金にならないので、サツマイモや麦畑にしました。(PDF版の抜粋です)

昭和20年代の諏訪の一本松の白黒写真 

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