まちのこぼれ話〈二子・瀬田・諏訪〉

子どもがB29の音を聞き分ける、そんな時代でした

廣部 鵬洲(和男)さん
(ひろべ ほうしゅう(かずお)さん)

昭和11年生まれ 77歳 
川崎市高津区諏訪在住

多摩川そばでホテルや
スイミングプールを営んでいた廣部さん。
戦争の記憶やまちの変化を語ってくれました。
(平成25年10月9日)

廣部 鵬洲(和男)さんの写真

ご自身について教えてください

 

 ぼくは瀬田、諏訪、あの辺り多摩川の川縁で生まれ育ちました。父親は神奈川県庁に勤める役人。堅くて真面目な人でした。母親は瀬田で「廣部女塾」というお和裁の塾を開いていました。昔はお嫁入り前に裁縫を習うのは良家の子女のたしなみだったので、少し余裕のある家庭のお嬢様達が習いに来ていました。母親はお針を教えるだけでなく、内弟子もおりましたので「しまや呉服店」から着物を仕立てる仕事を頂戴し、納めていたようです。私は四人兄妹の次男で、上の二人が男、下の二人が女です。

昭和50年二子新地駅前の白黒写真 

子どもの頃はどんな遊びをしていましたか?

 

 昭和10年代、遊び場は多摩川。小学校から帰ってくると六尺のさらし、ふんどしを巻いて、自宅から川まで行っていました。その頃はふんどし一つでも恥ずかしくないのです。大人だって下着、ランニングにステテコをはいていても可笑しくない時代でしたから。
 友達とふんどし一つで多摩川に行って、泳いだり釣りをしたりして遊びました。多摩川は今よりも水量は多かったですね、魚もいっぱいいましたから、子どもでも獲れたのですよ。
 “あんま釣り”っていって。竿にテグス、糸をつけてね。川のなかの石をひっくり返すと石の裏にチョロ虫ってちょろちょろって動く虫がいて、それを捕まえて餌にして。針にかけて“あんま釣り”。杖で探りながら。その頃はハヤだとかヤマメだとかそんなのがたくさん獲れました。それを猫じゃらしに吊すのです。猫じゃらしは下が太いから落ちないでしょ、あれに何匹も魚を吊して、ふんどしにかけて持って帰るのです。餌のチョロ虫が死んじゃうといけないからときどきちょっと水をかけてね。楽しかったですよ。

戦争について、思い出はありますか?

 

 高学年になると、この辺りも空襲が激しくなり、もうほとんど学校にはいけなくなりました。高津小学校は閉鎖され、子ども達は大山に集団疎開にいくことなりました。私は、身体の具合が悪かったので親が縁故疎開させるからと集団疎開に行き損ねました。
 空襲はほぼ毎日ありました。夜は電球に黒い頭巾をかぶせて、灯りが外に漏れないようにしていました。ラジオから「敵は御前崎から侵入して、鹿島灘に遁走せり」と空襲警報が毎日何度も発令されました、あの頃のラジオ、まだ頭に焼き付いています。
 警報が鳴ると、私は弟と一緒に下の妹をひとりずつ抱えて、防空壕に潜りました。母親は婦人会のバケツリレーに出て、火を消さなきゃいけないし、父親は役人でしたから仕事に出なきゃいけない。だから子どもだけで防空壕に潜りました。
 多摩川の河原でのんびりしていても頭上にB29が飛んで来ました。下から、日本の飛行機が威嚇しに行くのですが、その高さまで届かないのです。トンボの下にハエが飛んでいるみたい、そんな情景も見ていました。
 子どもでしたけど、飛んでいる音でB29だってわかるようになっていました。カーチスだとか機銃掃射をする戦闘機と違って、B29はエンジンのゴロ~ンゴロ~ンっていう音が飛行機の音のなかに入ってくるのです。あぁ、これB29だなって。子どもが飛行機の音を聞き分ける、そんな時代でした、ぼくの少年時代は。(PDF版の抜粋です)

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