まちのこぼれ話〈下作延・上作延・向ケ丘地域〉
昔の緑ヶ丘霊園の花見は盛大だったねぇ
大石 瀧次郎さん
(おおいし たきじろう さん)
昭和15年生まれ 75歳
川崎市高津区下作延5丁目在住
子どもの頃から石材店を続けている大石さん。
家業の石材店のことや緑ヶ丘霊園のお花見などについてお話をを伺いました。
(平成27年10月22日)
有名な霊園のお花見について聞かせてください
昔からこの津田山の花見は有名です。
下作延小学校のできる前は、線路に沿っても植えましたし、墓地のところは下の土地から上がるように植えていきました。
もはや、土地を売ってくれるところからどんどん桜を植えていった感じでした。現在、ほとんど桜並木が繋がりましたね。
花見の思い出としては、いろいろとありますねえ。霊園の入り口を通行止めにして花見優先にしたり、
すると今度は車で来た墓参りの人から文句が出たりと、いろいろと取り決めに変遷はあったようです。
家業の石材店について聞かせてください
長男としてよく、父の手伝いをしましたよ。 小学校5年までは毎朝6時に起こされ、コークスに空気を送って延ばすフイゴ (気密な空間の体積を変化させることによって空気の流れを生み出し、火力を強めるために用いる送風装置)を吹きました。 これは石を作るのに必要な作業ですが、おそらく、この仕事は石屋の長男なら全国共通です。 毎朝この役目をしてから朝食、そして登校しました。休みは土日に関係なく、毎月1日と15日でした。 これは職人たちの休みの日だからです。 仕事は何人かで組んでやるのが基本だったから、2人などでは何にもできないのです。 昔はすべて、人間の手で仕事をしましたからね。
平瀬川の氾濫の経験はありますか?
昔は「あばれ川」と言いました。
氾濫してひどい時は、今の「上の橋」、「下の橋」、「丸井」のところまで水浸しになりました。
原因は、南武線の鉄橋の橋げたに水がぶつかり、一部をせき止めた反動で向こう側にオーバーフローしてしまったようでした。
津田山も3分の2は水で浸かり、駅も半分が浸かりました。
駅員に知人がいて、その時に写真を撮ることを頼まれ、その写真を国鉄に渡しました。
それからですよ、南武線の橋げたが広くなったのは。
川の小さい氾濫はたびたびありましたが、昭和52年頃に凄いのがありました。
トンネルを2本にしたら、多摩川にだいぶ水が抜けるようになり、かなり落ち着きました。
(PDF版の抜粋です)