まちのこぼれ話〈下作延・上作延・向ケ丘地域〉

 

平瀬川の氾濫はひどかったねぇ

三田 菊一さん
(みた きくかず さん)

昭和10年生まれ 80歳
川崎市高津区下作延4丁目在住

神明神社のふもとにお住まいの三田さん。
神明神社の氏子の話や平瀬川の氾濫などについて伺いました。
(平成27年6月22日)

三田 菊一さんの写真

平瀬川の氾濫について教えてください。

 

 平瀬川の氾濫は2回経験しています。
 1回目は田んぼに水がつかり、ボートが来たことをよく覚えています。
 2回目は、娘が久本小学校から帰って来られなくなって、必死で探したら、七面山(津田山)に避難していたんです。 見つけた時はほっとしましたよ。今は、歩いているところは川面から高さがあるけれど、 昔は歩いているところがすぐ土手だったのでよく氾濫しました。
 津田山のところで2本トンネルを抜いてから平瀬川の氾濫はなくなりました。

神明神社について教えてください。

 

 家の裏から細い道に入った左、神明神社に入る裏の階段の角、うちの土地に庚申堂 (*道の辻や、寺社や墓地の入り口などによく置かれ、延命長寿にご利益あるといわれる) があります。 道しるべですね。
 道の右側は田んぼ、左側は竹やぶだったこのあたりもだんだんに開発が進み、住む人が増えると、 その当時の神明神社運営委員会だけでは、神社の行事を執り行うことが大変になるだろうということで、 会員を募集したところ、皆さんのご協力もあり、会員が300名程になりました。 そこで、昭和61年4月に、神明神社運営委員会から神明神社氏子会に替わりました。 規模も大きくなり、行事も活気が出てきて、特に秋の祭礼には大勢の参加があり、大変賑やかになっています。 初詣は500人近い人がお参りに来ます。

2人の兄は戦死-戦争の記憶

 

 兄弟は多かったけれど、次男は16歳で志願して出征し、一度も家には戻らなかったです。 長男も後を追うように出征し、兄弟一緒に仲良く遊んだという記憶は何もありません。
 昭和20年3月9日夜、近くのお寺(円福寺)に焼夷弾が落ち、 家のまわりの竹やぶが昼間と同じくらい明るくなったことをよく覚えています。 今の宮前生活環境事業所辺りに「62部隊」があったので、そこを狙って少しそれたんだと思います。
 実はこの日、祖父が亡くなっているんです。祖父の遺体を家において「申し訳ない」と思いながら、 とにかくみんなで防空壕に急いで逃げたことを覚えています。 (PDF版の抜粋です)

下作延神明神社にある戦没者慰霊碑の写真

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