まちのこぼれ話〈下作延・上作延・向ケ丘〉
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水洗トイレって何だ
確か昭和27年か28年だったでしょうか…このあたりで溝の口百貨店に水洗トイレが最初にできて、学校帰りにどんなものか友達と見に行って、水を流して「なるほど」なんてね(笑)。
現在も続く講とは
冠婚葬祭の時など、講中の仲間は今でも固い絆で結ばれています。
葬式は、自分の仕事を1、2日休んでも手伝います。
町内会とは別の存在ですね。
平瀬川の氾濫はひどかったねぇ
平瀬川の氾濫は2回経験しています。
1回目は田んぼに水が浸かり、ボートが来たことを覚えています。
2回目は娘が久本小学校から帰って来られなくなって、必死で探したら七面山(津田山)に避難していたんですよ。
久地と下作延をあわせた地域が津田山なんです
「津田山」はJRの駅名にもなっていますが、現在の住居表示としては「津田山」という地名はないんですよ。
溝口まで電車を走らせた多摩川電気鉄道の社長が津田さんといってね、
その名前にちなんで、久地と下作延にまたがる丘陵一帯が「津田山」と呼ばれていたんです。
下作延の屋号について
屋号のある家は由緒ある家。下作延でも、昔からの旧家には屋号があります。
「おっこし」という屋号、一山越えて、どっこいしょと越してきたために「おっこし」と呼んだそうです。
母の妹はその「おっこし」に嫁いだので「おっこしの妹は」と、よく言っておりました。
昔の緑ヶ丘霊園の花見は盛大だったねぇ
昔からこの津田山の花見は有名です。昭和20年後半から直径7~8センチの桜の苗木を植えて並木として整え始めました。
今は、昔より花見客が少なくなったねぇ。川崎市内にも桜の名所がたくさんできましたからね。
以前、桜の木を切るという話もありました。
昭和19年5月25日の夜
昭和19年5月25日の夜、私は庭にいました。
「焼夷弾だ!」父の叫び声!物置に飛び込んだと同時に物凄い音がして吹き飛ばされました。
土壁の煙がもうもうとする中、見上げると屋根に大きな穴が開いていました。
秋祭りの素人お芝居で、女役もやりましたよ
少し大人になると、地元の青年団に入って秋祭りの素人お芝居にも参加しました。
私も20歳過ぎてから芝居で女役をやったりしてね。
お祭りに欠かせない日本酒は、この下の平瀬川の端っこにあった「関本屋」というお店で買いましたよ。
代々守り継ぐもの
三ツ橋の家では代々「藤左衛門」の名前を継いでいて、私で第十七代になります。
家の敷地の中には、数代前のご先祖様が建てた「お社」もありますよ。
私はここに生まれてずっと住んでいるから当たり前だと思うことも多いけれど、長男の嫁も昔ながらの家のしきたりを守ってくれています。
地元への恩返し
上作延小学校の4年生に「平瀬川の三堰維持記念碑の歴史」を教えて10年になります。
今は6年生に「第二次世界大戦の空襲を受けた体験」も語り、これは3年目になります。
子どもたちからのお礼や質問など、感想文集を先生が送ってくれるのですが、これが楽しくってねぇ。
上作延小学校には、焼夷弾のかけらがあるので、最近は興味津々で聞きに来る保護者もいます。
うちの駄菓子屋は上作延小学校と同い年なのよ
駄菓子を売っているこのお店はね、小学校ができた時に、私のためにお祖母ちゃんが作ってくれたの。
だから40年やってるの。小学校と同じよ。
昔は遠足の前っていうと、子どもたちが店の前に並んで大変でしたよ。
村で順番にわらぶき屋根を替えていました
4~5年に1回、冬の季節に屋根替えがあり、1軒ずつ順番に屋根替えを手伝いました。
屋根替えのために刈ったススキの穂などの量が足りないと、屋根に使っても保ちが悪かったですよ。
だから、たくさん干してある家から、お金を出して買い足しもしました。
小学校卒業後は奉公に出たのよ
小学校卒業後1年ほど家を手伝って、それから奉公に出たのよ。
昔は兄妹が多かったから、家のために奉公に出るのは当たり前だったわ。
でも、昔のことを悔んだりしませんよ。こんな丈夫な体に生んでくれた親に感謝しなきゃね。
引っ越してきた頃の思い出
夏になるとよく唸り声が聞こえてきたんです「うううう」って。
近所の人に聞いてみたら、それがね、食用蛙の声だって言うんです。
声の正体が解るまでは皆ビクビクして、怖かったですよ(笑)。
夏は平瀬川で1日水浴び
上作延に平瀬川の堰が3つあって、夏はそこで1日中遊びました。身体を焼いたり、泳いだり、泳ぎはそこで覚えました。
フナ、ハヤ、ヤマメなどもいて、よく捕って帰ると、夜に母が焼いてくれて食べました。