まちのこぼれ話〈子母口・明津・蟹ヶ谷・久末・野川〉
宅地開発と共に人口も増えました
森 雪子さん
(もり ゆきこ さん)
昭和8年生まれ 83歳
川崎市高津区久末在住
ご実家も嫁ぎ先も久末の森雪子さん。
戦争中の様子や街の移り変わりなどを伺いました。
(平成28年10月3日)
子どもの頃の遊びは
遊びは、石蹴り、お手玉、羽根つき、おはじきをしました。お手玉は洋服の余り布を使って自分で作りましたね。私はお手玉を四個同時につけました。男の子は、竹馬。高い竹馬を自分で作って、乗っていました。
私たちの時代は、身の回りにあるもので工夫し自分で作って、体を動かして遊んでいましたよ。
戦争中だった小学校時代
小学校は橘尋常小学校に通いました。でも、授業どころではありませんでした。菰編み(こもあみ)といって、麦わらを使い、俵のような厚さに編み、畳の代用品作りをしました。
学校へ行っても、空襲警報がなると下校。先生に菰を持ち帰り、家で編んでくるよう指導されていました。出来上がると再び背負って学校に持参。教室に私たちが作った菰が5枚1組に束ねて積み上げてありました。
街の風景が変わっていったのは
久末の周辺が、田んぼが埋められ宅地に変わっていったのは、昭和30年頃からです。
第三京浜を建設するために出た残土を処理するため、川崎市が田んぼを地主から買い上げ、埋め立てられたのです。そこに、平屋建ての市営住宅が建設され、五反田橋周辺から谷中まで住宅ができました。
住宅が増えるにつれ、人口が増加。マンションが建設されていきました。田園風景の久末村は、宅地開発と共に変化して行き、今では昔の面影は、久末小周辺を残すのみになりました。
(PDF版の抜粋です)