まちのこぼれ話〈子母口・明津・蟹ヶ谷・久末・野川〉
桜の名所がありました
沼田 忠男さん
(ぬまた ただお さん)
昭和16年生まれ 75歳
川崎市高津区蟹ヶ谷在住
代々蟹ヶ谷に住み、地域の活動にも御尽力中の沼田さん。
小中学校時代の様子や蟹ヶ谷の地名の由来などについて伺いました。
(平成28年9月6日)
子どもの頃の蟹ヶ谷の様子は
私は五人兄弟の長男です。上から四人の男が続いて、末が長女になります。
昔はどこも農家でね。蟹ヶ谷には15~16軒の家がありました。昭和30年代に都市化されて家や工場が増えたりするのですが、それまではひっそりとした田舎でしたね。
小学生の頃
小学校は橘小学校です。1学年は4クラスです。給食はなく、お弁当を持って通いました。
当時は梅干し一つの「日の丸弁当」、恥ずかしくて弁当箱を包んだ新聞紙を顔の前に立てて、みんなから見えないようにして、素早く食べたりしましたね。中学校に行く頃には卵焼きや海苔も入るようになりました。
中学校の頃
中学校は新しくできた橘中学校で、私は二期生です。当時は西中原中学校へ進む人が多く、新しく橘中ができて西中原中に行かなかった人が一期生として集まり、翌年、私たちの学年が皆揃って入学したというわけです。校舎は一棟で一学年3クラスでした。
できたばかりの運動場は整備が必要で、山からトロッコで岩を運んだり、ローラーを手で引いて整地をしたりしたことを覚えています。
(PDF版の抜粋です)