まちのこぼれ話〈子母口・明津・蟹ヶ谷・久末・野川〉
小学校の卒業証書をもらってない
山田 義太郎さん
(やまだ よしたろう さん)
昭和6年生まれ 85歳
川崎市高津区明津在住
19歳のときに家督を継いだ山田さん。
戦後間もなくの家庭の様子や家業などについて伺いました。
(平成28年7月19日)
家族のこと、家督のこと
父は昭和25年に49歳で亡くなりました。その時私は19歳だったの。一番下の子はまだヨチヨチ歩きしてたころですよ。
それでも相続の手続きをやらなくちゃならなくて、周りの大人にも尋ねたんだけど、何しろね、新憲法になって間もないころでしょう?法律も変わっちゃってるから、皆わからないっていうんですよ。
それでも子どもたちが全員未成年だからねえ、決めるのが難しかったらしいです。将来争いになってもいけないしということで、子どもたちが成人した時に土地を分けること、という条件付きで長男の私がいったん全部の家督を相続したんですけれどね。法律って柔軟に対処できるもんだなあと感心しましたよ(笑)。
戦争のこと
蟹ヶ谷に海軍の通信施設があったから、それが目標にされてたんだね。爆撃されて、大きな、幹が一抱えもあるような松の木2本がスッパリ切り取られたようになってたのをよく覚えてる。竹藪に焼夷弾が落ちてて爆発したこともあった。
サツマイモの室(むろ)を防空壕にして入ってましたよ。15~6人は入れる広さだったね。終戦は14歳の時でした。もう少し戦争が続いていたら私も徴兵されていたんでしょうねえ。
家業のこと
私は長男だったから、ずっと父の手伝いで、農業をやらされてました。弟たちは鳩を飼って伝書鳩のコンクールに出場したりしてね。楽しそうに遊んでましたよ(笑)。でも私だけはずっと手伝い(笑)。
出荷はリヤカーを引いて五反田の市場まで売りに行ってました。目黒川を越えて、片道2時間くらいかかったよ。他に子母口や武蔵小杉、千年にも行ってました。
(PDF版の抜粋です)