まちのこぼれ話〈子母口・明津・蟹ヶ谷・久末・野川〉
空襲の記憶
渡邊 貞雄さん
(わたなべ さだお さん)
昭和9年生まれ 82歳
川崎市高津区明津在住
祖父の代から明津に住んでいる渡邊さん。
戦争中の話や昔の生活の様子などについて伺いました。
(平成28年7月14日)
遊ぶより家の手伝い
小学校は、千年の橘小学校に通いました。今と同じ場所にあって、子どもの足で20~30分はかかったかな。1クラス30人、男女半々くらいでした。
明津は千年、久末とは離れた小さな集落で、子どもも3人くらいで少なかったので、遊びの記憶はメンコをやったくらいであまりありません。家の手伝いはよくやりました。
空襲警報のサイレン
小学校に通っている頃、空襲が度々くるようになりました。このあたりは平地なので,防空壕を背の高さくらいまでタテに穴を掘って、入り口は竹を渡して、その上に土をかぶせていました。
空襲のサイレンが鳴ると、すぐに下校になりました。子ども心には「家に帰れる」という気持ちの方が強かったですね。下校途中に空襲のサイレンが鳴るととにかく近くにある防空壕にどこでも入っていました。
地域で助けあう農の暮らし
我が家は、戦前までは麦・米など穀物中心の農家でした。下小田中に親戚がいて、一頭の牛を共有して、1週間交替で牛を連れて丸子橋を渡り、田園調布までくみ取りに行ったりもしました。
(PDF版の抜粋です)