まちのこぼれ話〈子母口・明津・蟹ヶ谷・久末・野川〉

 

明津は米作りが主でした

岸 巌さん
(きし いわお さん)

昭和6年生まれ 84歳
川崎市高津区明津在住

代々農業をやってこられた岸さん。
子どもの頃の話や戦争の話などについて伺いました。
(平成28年7月7日)

岸 巌さんの写真

小学校の頃

 

 学校は橘尋常高等小学校に通っていました。家から2.5キロ離れていて、通うのに子どもの足で20分くらいかかったかな。近所の者が15、6人ほど集まって集団で登校していました。大きい子が引率してね。
 運動会は盛大でしたよ。家族がお弁当持って、筵もって皆で応援にきてくれました。一等賞になると鉛筆とかノートなどの学用品を賞品にもらえました。
遠足もありましたよ。羽田の方へ潮干狩りに行ったりしたなあ。多摩川の河口のところね。アサリが20個くらい採れたっけな(笑)。

子どもの頃の遊び

 

 毎日走り回っていたね。鬼ごっことかかくれんぼとか。ボールを使う遊びはしていないよ。ボール持ってなかったしね。野球なんて知らなかった(笑)。
 お正月にはやはり凧揚げやコマ回し、女の子は羽根つきで遊んでいました。
 夏には矢上川で泳ぎました。子母口の上流の方は深くって大きい子しか泳げなくて、小さい子は下流の方でパチャパチャやってました。
 魚やウナギも捕れて、網を持って捕まえに行きました。捕まえるのは兄たちで、僕はもっぱらバケツ持ちだったな(笑)。

戦争の頃

 

 B29が頭の上を通ったのをよく覚えてます。すごく低いところを飛んでいて、焼夷弾が落ちてくるのなんかも見えてました。
 中原の方で、防空壕の中で一家が亡くなったなんて話も聞いていたので、防空壕に入るのも恐くってね。家族は防空壕に入っていたけど、僕だけ畑にいました。
(PDF版の抜粋です)

PDFで全文を見る

地域別へ戻る