まちのこぼれ話〈子母口・明津・蟹ヶ谷・久末・野川〉
終戦時の記憶
鳥海 正博さん
(とりうみ まさひろ さん)
昭和4年生まれ 88歳
川崎市高津区子母口在住
東京生まれで中学3年生のときに子母口に引越してきた鳥海さん。
子母口での農業の話や祭りで行う素人芝居などについて伺いました。
(平成28年10月5日)
子母口へ
私は東京生まれでね。昭和19年、中学3年の時に子母口に越してきて、5年生まで行かずに4年で繰り上げ卒業させてもらい農業を手伝いました。
田畑の手伝いは、まず水の確保ですね。このあたりは矢上川水系で、日照りが続く年はポンプで用水をくみ上げるのです。番水といって、一番二番と番号を割り当て、当番になると水を引いてもらえるのです。
戦争中の記憶
小学校6年の時に大東亜戦争が始まり、中学4年で終戦です。
うちでは崖下に防空壕を3つ掘っておいて、第一と第二は人や貴重品、第三は芋の貯蔵庫にしていました。
B29が飛んで、筒状の焼夷弾が60発くらい入っていて、途中で雨のようにざあっと落ちてきました。中は油ですから田んぼが燃えて、麦わらの屋根に落ちれば焼夷弾一本で丸焼けでしたね。何回も防空壕に入りましたが、家が焼けなかったのは助かりました。
お祭り
戦後は青年団で素人芝居をしました。場所によって祭りの日にちが違いましたから、最初は野川、最後は井田というように、順番に廻っていくのです。あちこちの祭りに行くのは楽しくてね。夜中の12時頃に家に帰って、翌日は眠くて欠伸しながら仕事したものです。
芝居は神社の秋祭りで上演しました。私は警察官の役を2回演じましたよ。演目として人気なのはほとんど時代劇でした。
(PDF版の抜粋です)