まちのこぼれ話〈子母口・明津・蟹ヶ谷・久末・野川〉

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子どもも農家の手伝いをするのが当たり前でした

親の仕事が農家ですから、子どもも、男女関係なく当たり前に手伝いました。親たちは、朝は6時起き、7時には朝ご飯、そしてリヤカーを引いて野良弁当を持って畑に出ていくのです。今の子どもたちが家で勉強するのとは違い、当時の子どもたちの農家の手伝いも勉強と同じくらい大切なことでした。

小学校に持って行く弁当は

幸い、農家だから弁当の中身は疎開っ子よりは良かったですね。彼らは、サツマイモだけだったり、サツマイモ入りのご飯だったりでしたが、私らは多少、麦が入っていても白米弁当でした。しかし、不思議なもんで、彼らの弁当を見ていると急にそっちの方が食べたくなるんだねえ。何回か、交換して食べましたよ(笑)。

終戦時の記憶

昭和20年8月15日は暑くて、近くの西が堰で泳いでいました。玉音放送があって戦争が終わったことを知り、まるで鉄兜をかぶされていたのを外されて、ぱあーっと晴れたような気持ちになりました。良かったと思いました。

祭りの時期になると

祭りの時期になると、「今日はお祭りだから」と母が重箱に煮しめとか赤飯などご馳走を詰めてくれて、それをその地域の親戚の家に持っていって一緒に食べた思い出があります。あちこちの祭りに母が作ったご馳走の入った重箱を自転車で運ぶのが、私の仕事でした。これはすごく楽しかったな。

明津は米作りが主でした

水は用水から引いてたんだけど、何しろ下流だからね、大変だった。草を刈って水の通りが良くなるようにしたりね。
夜だといくらか水が溜まりやすいってんで、そういう水引作業は夜にやるんだ。蚊がいっぱいいるから蚊よけに南京袋を被ってた奴もいたよ(笑)。

空襲の記憶

明津は当時10数件、そのうち1軒が空襲で焼けました。うちの周りにも六角爆弾(焼夷弾)が落ちました。爆弾は、投下されて途中までは1つで、空中で爆発して、束のようなものがバラバラになって落ちてきました。生ゴムみたいな糊のようなものでそれがあちこちで燃え出して、親たちは火を消そうとしていたけど結局は逃げるしかなかった…。この時のことは忘れられないです。

小学校の卒業証書をもらってない

私はね、6年生の時から学徒動員に行ったの。だからね、小学校の卒業証書をもらってないんですよ。学徒動員を終えてから、成人学校に1年間通って、そこは卒業しました。
学徒動員では新城駅近くの工場へ弁当持参で通ってました。そこで養成所ってところに回されて、旋盤の仕事を基礎から習ってネジ切りって難しい技術までやりました。機械が好きだったから、けっこう夢中になってね、おかげでずいぶんいろんな旋盤の技術を覚えましたよ。

桜の名所がありました

昭和30年頃まではこのあたりに桜並木があったのですよ。矢上川の井田堤というのがあって桜の名所でしたね。ところが川が狭くて水が溢れてしまうため、何回かに分けて護岸工事を行いました。
その整備のために桜の木を切ってしまったのです。昔は桜並木のトンネルが人気で、季節になると多くの人が集まったけれど惜しいことをしました。

山でおやつを調達

小学校の頃のおやつは、学校から帰ると姉たちと山に行って黄色い花が咲く山いちご、桑の実や栗を採るんです。栗はすぐに竹でイガをとって、皮をむいて生のまま食べるの。それがおいしいのよ。春は矢上川の桜が見事に咲いて、サクランボもなって、これも採るのが楽しみでした。

ホタルの光の中を歩いて帰宅

昭和39年に東京オリンピックが開催されたでしょう?放送局の設備の仕事を担当していたから、忙しくてね。帰ってくるのはいつも深夜。
街灯なんてない真っ暗な道を歩いていたら小さな火の玉がいっぱい飛んでいてビックリしたけれど、実はホタルが群れを成して飛んでいたんでした。すごかったですよ。この辺は水がいいからね。

床下浸水の記憶

矢上川の堤防がまだ低くて、桜が植わっていたころは、川が溢れて床下浸水になったこともありましたね。そのころの矢上川には魚もいたしドジョウなんかも採れました。

久末の市営住宅は

昭和31~2年ごろから先達の方々が、この状況ではこの地域は発展しないということで、ここに市営の公営住宅を誘致しました。一番早かったのが妙法寺のバス停の近くですね。現在は久末西住宅となっておりますね。

新聞配達の思い出

母に朝4時20分に起こしてもらい、日吉まで自転車で新聞を取りにいきました。中学3年までの5年間、1日も休まずに配達しました。家計は厳しかったから、配達中によその家の柿が食べたくてねえ。その想いで大人になって自宅の庭に柿の木を植えたけど、自分の子どもたちは見向きもしないんだから、まったく嫌になっちゃうよねえ。

宅地開発と共に人口も増えました

人口増加につれ、小学校も増えました。
私には三人の息子がいますが、住所は一度も変わっていないのに、長男は野川小学校、次男は子母口小学校、三男は久末小学校に、とみな違う学校に通ったんですよ。

学校が変わってよく苛められました

昭和16年に橘国民学校に入学しました4年生から卒業までは、川崎市立野川小学校に通いました。
野川小学校では、元々いた連中が強くてよく苛められましたよ。あっちは縄張りを持ってるし、こっちは居候のような感じでね・・・。何が違うってまず、言葉が違いますよ。こっちは「ベーベー言葉」なんですよ。それに小学校の先生たちの教育方針も違いましたね。

歩いてお嫁入り

私は昭和33年に結婚してここにきました。着物を着て山の向こうの表久末から歩いてお嫁に来たんです。あの頃は車なんてなかったですから…。
お仲人さんは今、畑を作っているところのお隣さんのおじいちゃん、おばあちゃん。二人も着物を着て歩いて私を連れてきてくれたんです。昔は村から村へと嫁いだんですね。

憧れの団地に当選

間取りは3DKで、団地サイズだから1畳が小さめですが、3畳、4畳半、6畳と台所と風呂付きです。この市営住宅に引越した時、何が嬉しいって、風呂があることが最高でしたね。横浜の社宅は共同風呂でしたからねえ。台所も使い勝手がかなり良くなり、友人もよく飲みに招きましたよ。

子どもの頃の遊びは

山の中をかけずり回ったり、チャンバラごっこをしたり。遊ぶ仲間は5~7人くらいで、女の子もいたね。そのころはプールなんてないから、川で泳ぎました。下の有馬川で泳いだり、魚釣りをしたり。泳ぐのは田んぼに水を引くための堰があったから、そこで。魚も釣ったね。

海の中でアンパンを食べる

水練も受けました。海軍から教えに来るんです。遠泳ってことで金沢(横浜市金沢区)から追浜(横須賀市)までの往復、朝から夕方までずっと泳ぎっぱなし。昼食も泳ぎながらでした。当時はなかなか食べられなかったアンパンを2個ぐらいもらいましたかね。水の中で食べるからすぐ濡れちゃうんだけど。10時と3時には氷砂糖をくれました。

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