まちのこぼれ話〈久地・宇奈根・北見方・下野毛〉
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昭和23年、シベリアから帰国しました
ナホトカから舞鶴港に着いて、そこで3~4日いろいろ聞かれたり、身体検査に行ったりして、それから帰ってきました。あの時、200円くらいもらったんです。「ああこれで家が建つ」なんて思いました。ところが汽車に乗って、サツマイモを買ったら100円取られちゃった。もう、全然、感覚が違うんですよね。
小学校の頃からの遊びはずっと円筒分水でした
円筒分水は、底が空いているので中央部分で潜ると円の外側に出てくるのですよ。一度潜って見えなくなると、「あれっ、どこ行っちゃった?」なんてね(笑)。泳ぐときは、女子は海水着だったし、男子は「赤フンだぞ!」なんて威張っていました。
円筒分水で泳ぎの練習をしました
二ヶ領用水には年中飛び込んで泳いだり、円筒のとこに潜ったりして遊びました。ある時期、水を仕切るコンクリートの外壁に、夜中の2時頃になるとエビが20センチくらいの幅にば~っと上がってきていたの。真っ白できれいな3センチくらいの小エビでね、いっぱい上がってきていた。
父が帰ってくるのが楽しみでした
終戦は5年生の終わりごろでした。天皇陛下の玉音放送は家で聞いたような気がするけれど、よく覚えていませんね。ただ父が帰ってくるのが嬉しくて楽しみでした。寂しかったですからね。
わんぱく少年の鉄則
登校途中、津田山沿いの府中街道の沢には、50~70センチの氷柱ができていて、新聞紙に包んで学校に持っていきました。カブトムシ、氷柱などを学校に持っていき友達を喜ばせ、常にみんなの注目をあびる、これがわんぱく少年の鉄則でした(笑)。
子どもの頃の遊び
縄跳びとか、毬をついたり、羽根をついたり、お手玉で遊んだり。お手玉は「いっちょすい、にちょすい、さんちょすいできた」と歌いながら遊ぶのです。うまくできないと、負けてしまい、お手玉をとられちゃうの。
宇奈根に養鶏産業を興す
戦中から親父が100羽くらいニワトリを平飼いで始めていました。戦後は野菜を作るよりも稼げる、ということで宇奈根の全農家はうちの親父の指導で養鶏を始めました。うちは最大1万羽の鶏を飼っていました。鶏舎は3か所に分散していて、三段鶏舎で、屋根はのこぎり型といって長く続いているんです。
空襲警報が鳴ると家の前に掘った防空壕へ逃げ込みました
防空壕と言っても、ただ穴を掘って、上に竹を乗せて土を被せたみたいなもので、爆弾が落ちれば一発で駄目になっていたと思います。空襲警報は絶えずありました。祖母は具合が悪かったから、お袋が背負ってしょっちゅう防空壕を出たり入ったりしていました。
祖父が買ってくれた勉強机
私が小学校へ入学する時にね、長男だから勉強させるんだって、祖父が世田谷のボロ市で勉強机を買ってきてくれましてね。家まで背中に背負って帰ってきたんですよ(笑)。もう脚の部分がダメになって天板だけになっちゃったけど今でもそれを使っていますよ。
九死に一生を得る
甲府の49連隊に入隊しました。輸送船に乗って上海から移動するとき大変な目に遭いました。魚雷を受けて撃沈されたのです。少年兵で助かったのは私ともう一人だけでした。撃沈されても軍艦「朝風」と「朝露」が助けにきてくれたのです。私は「朝風」に救われました。
戦前は北見方では桃を作っていました
戦前はこの辺りでは桃を作っていたんですが、戦争が始まってからは穀物を作らなきゃいけないってことで、みんな切られちゃいました。梨は復活したけれど桃は復活しなかったですね。
父はお祭りの囃子をやっていました
太鼓をたたいたり、笛を吹いたり、踊ったり、20人くらいで櫓の上に乗ってやっていました。終わると、我が家で母が煮しめを作ってふるまっていました。お祭りには屋台も出て賑やかでしたね。
家業は農業と瓦屋の二本立て
とにかく私ら兄弟も手伝いで忙しかったですよ。子どもだって、物ごころがついたら、家業の戦力ですから。うちには4、5人の職人さんがいて、土をこねてプレスして瓦の形を作るのを、小さなときからよく見ていました。
野毛の渡し
下野毛には30軒ほどが暮らしていて、農家が交代で船頭になっていました。菩提寺のお参りや日頃の交通の手段としても使われていましたよ。船は結構手伝いましたね。冬は寒くて大変だったけど、夏は楽しかったです。
渡し舟の思い出で
多摩川に第三京浜の橋が架かる以前には、向こう岸に渡る手段に渡し舟がありました。下野毛にも渡し舟の船着場があり、大人5円、猟犬が5円でした。しかし、犬に5円を払うのはもったいないと犬は泳がせて渡らせていたなあ。