まちのこぼれ話〈梶ヶ谷・末長・新作・千年・千年新町地域〉
食用カエルを南京袋に詰めて
内田 義一さん
(うちだ よしかず さん)
昭和14年生まれ 75歳
川崎市高津区新作在住
町会長など自治会活動に汗を流す内田さんに、
子どもの頃の遊びや思い出、まちの風景のことなどを伺いました。
(平成26年10月27日)

子どものころの思い出は?
小学校は橘小に通っていました。低学年のころは着物を着て通学していましたね。時々、立派な洋服を着ている子がいるの。
買ってもらったんじゃなくてね、都会の人から米や野菜と物々交換で手に入れたものなんだよね(笑)。記念写真なんか見ると、
皆立派な洋服を着てますよ(笑)。
小学校の運動会では、足も速かったんでリレーの選手でした。でもね、親が運動会に来てくれたって覚えがないですね。
私のところだけじゃなくて、皆ね。農家だったから畑仕事が忙しいからね。
夏には虫捕りもよくしました。蝉捕りの時はね、輪っかに蜘蛛の巣をはりつけて、それで捕まえたんです。よくくっついてね、
うまくいくんですよ。トンボは田んぼに行って手で捕まえていました。慣れるとどこを飛ぶか分かるようになるんだよね。
子どもの頃の小遣い稼ぎ
当時は小遣いなんて、お祭りやお正月にちょこっと貰えるだけだったから、小学校の高学年になると、
いろいろ小遣い稼ぎもしていました。
食用ガエルを捕まえて、皆の分を集めて南京袋に詰めて売りに行くの。売れたお金は皆で分配していました。
ドジョウは魚屋に持ってったら売れたし、サンショウやウド、ゼンマイは八百屋で買ってくれました。
魚屋から頼まれて、アルバイトをしました。なにしろ氷水のなかに手を突っ込まなくちゃいけないから、冬は辛かったですね。
高校になると、夏休みに学校の先生がアルバイト先を紹介してくれました。町田の洋品店で働きました、想い出のひとつですね。
まちの移り変わりについて教えてください
地図を見てもらったら、この地区の道路が碁盤目に整っていることが分かるでしょう?この地区は早くから耕地整理に取り組んで
いましたからね。終戦後、私の父なども、家を建てる前にまず耕地整理だって、そのために随分頑張っていましたね。
地域全体のことだから大変なことだったでしょうけれど、住んでいる人たちが昔からざっくばらんで、まとまりが良かったんですね。
水道が引かれたのも早かったです。
昭和40年代後半まではよく浸水していたんですよ。田んぼを埋め立ててからですね。それ以前は田んぼが雨水滞水池の役割をしてくれました。
でも、昭和50年ごろから下水道整備が進み、その後は浸水しなくなりました。(PDF版の抜粋です)