まちのこぼれ話〈梶ヶ谷・末長・新作・千年・千年新町地域〉
八幡様の反対側の広場では子どもたちがよく遊んでいましたね
小宮 タケさん
(こみや たけ さん)
大正12年生まれ 90歳
川崎市高津区新作在住
家と畑を受け継ぎ守ってきた小宮さん。
戦争の記憶、子育て、畑仕事のことなどを伺いました。
(平成26年10月8日)

学校時代の思い出は?
小学校は橘小学校です。家から20分ほど歩いて通いました。同級生は男女30名くらいずつで、1年から6年までずっと同じクラスでした。
当時の遊びは、小学校くらいまでは、自宅の庭も広かったので、よく姉たちとも庭の木に紐をかけてブランコのように遊びました。お手玉
や羽根つきなどはもちろん、兄もいたので自然といっしょに石蹴りなどもしました。
小学校を卒業したら当時は、どんな財産家の娘も普通は、女子青年学校に行きました。女学校に行った生徒は、30名中たった1人だけです。
女子青年学校とは、学問や裁縫、料理などを勉強します。私は卒業したのが19歳でした。
戦争の記憶は?
うちの家の上で敵機が空中戦をやったときは、本当に恐かったですよ。私は、そのとき風邪で寝ていたんですよ。
近くの土手の竹やぶにグラマンから脱出したアメリカのパイロットがまだ生きていてね、近所の子どもたちが、「このやろう、このやろう」
と頭をペタペタ叩くのです。そのうち、62部隊の兵隊がその負傷した米兵を運んで行きましたよ。幸いだったのは、その飛行機の油が竹やぶに
散っても引火しなかったことですね。火事にならなくて本当に良かったです。いまだに夢に見ますよ。
アメリカの戦闘機は、同じ頃に馬絹に落ちましたよ。このときは、皆で自転車に乗って見にいきました。しかし、木っ端微塵だったらしく
形がなかったですね。姉の家が不発弾で危険にさらされたこともありました。誰かが役所に知らせたのか、やはり62部隊が来てくれました。
本当に有り難かったですね。もし、爆発していたら、姉の家はなかったですもの。新作は1軒も焼かれずにすみました。
子育ての様子を教えてください
子ども2人は橘小学校です。当時は給食はもちろん、PTAもありませんでした。学校での昼ごはんは、自宅に戻るか弁当です。
うちは、畑に出る私に代わって、私の母が子ども2人分の弁当を毎日作ってくれました。庭に鶏小屋があり、その卵を使っての卵焼きか、
海苔をびっしり敷いた上に醤油をたらした、いわゆるノリ弁ですね。それを新聞紙で包んで持って行きました。給食が始まったのは息子が
小学校の5、6年のときでした。
母に子どものことを任せての私の農作業は、夏と冬では違いました。夏は朝5時から畑に出て、涼しいうちに仕事をして、昼はいったん
自宅に戻り、ご飯のあとはお茶でも飲んで昼寝です。また夕方4時過ぎから畑に出て暗くなるまで働きました。冬は日が短いので、手元が
見えるまで働き、夜はゆっくりしました。(PDF版の抜粋です)