まちのこぼれ話〈梶ヶ谷・末長・新作・千年・千年新町地域〉
何と言っても「ターザンごっこ」ですね
関口 務さん
(せきぐち つとむ さん)
昭和16年生まれ 73歳
川崎市高津区末長在住
長年町内会長を務めてこられた関口さんに、
子どもの頃の思い出やまちの様子のことなどを伺いました。
(平成26年7月30日)

どのような子ども時代を過ごされましたか?
終戦のときは、4歳でした。姉1人に私で、私の下に妹と弟が1人ずつで4人兄弟です。当時は、幼稚園というものがなく、
近くのお寺に託児所がありましたが、祖父母がいたのでお世話になりませんでした。
小学校は家から歩いて20分の橘小学校に通いました。子どもながら、どこへでも歩いていきましたよ。私の母の実家の犬蔵や、
今の聖マリアンナ病院くらいまでなら歩いた記憶があります。時間にして2、3時間くらいですかねえ。
電車はこげ茶の南武線や溝の口までの大井町線がありましたが、子どもだから乗り方を知らないし。乗ったのは高校生ぐらいになってからです。
まちの様子はどうでしたか?
周りはほとんど農家でした。田んぼで米を作り、畑では野菜や麦を作りました。田んぼが足りないので、畑でも作れる米・陸稲(おかぼ)
を作りました。お茶は畑の周りに植えたので末長では30軒ぐらいに茶畑がありました。
日本光学の社員寮が満州からの引き上げ者の寮になり、商店は「しぶや商店」だけです。いわゆる何でも屋さんで、酒、食料品、薪、
練炭、豆炭などを売ってました。
そこで売ってたお菓子で思い出すのは、紅梅キャラメルです。今のグリコキャラメルと同じ感じですが、中に巨人軍の水原茂監督や
川上選手や青田選手の野球カードが入っていましたね。値段は10円くらいだったと思います。
溝の口の今の東急ストアーのあたりには闇市の雰囲気が残っていました。まだ、少し残っているところもありますよね。
どんな遊びがありましたか?
何と言っても、「ターザンごっこ」ですね。「熊の森」という近くの山にターザンの木や江戸見桜の木がありました。
高津区の資料にもありますが、ターザンの木は、太い蔓がからまって子どもがぶら下がるのに、丁度良かったのです。
とにかく子どもがたくさん集まりました。 江戸見桜は現在は3代目でしょうか。
終戦後の遊びは、防空壕の中の迷路です。落とし穴も作りました。くらやみの中で追いかけ合って2人が正面衝突して
顔から火花が散って、なんだか鼻のあたりがヌルヌルするなあと思って外へ出たら、2人とも鼻血を流してるんですよ(笑)。
防空壕の中には、一部日本光学の倉庫としてレンズやベアリングなどが隠されていました。戦後は、中で業者が食用のウサギも
飼っていた時期もありました。(PDF版の抜粋です)
