まちのこぼれ話〈梶ヶ谷・末長・新作・千年・千年新町地域〉
我が家は兵士の面会用宿舎だったんだ
吉田 知敬さん
(よしだ ともゆき さん)
昭和17年生まれ 72歳
川崎市高津区梶ヶ谷在住
梶ヶ谷1丁目町内会ができてから33年間町会長を続けている吉田さん。
こどもの頃の遊び、農業のことや陸軍第62部隊のことなどを伺いました。
(平成26年9月5日)

こどもの頃はどんな遊びをしていましたか?
この地区には農家が5軒あったんだ。幼稚園なんてないから、小さい頃は近所の子どもと遊んでました。同じ年代の子どもが多かったね。
遊びは、凧揚げ、独楽回し、メンコ、缶けりや鬼ごっこだったね。女の子はお手玉とかね。
小学校の高学年位になると、ホオジロを捕る仕掛けを作ったりもしたな。木とワイヤと捕虫網を使って作った仕掛けに稲穂と粟なんかを
エサにして入れておくんだ。夕方に仕掛けて翌朝見に行くの。猫に食べられてる時もあったけど、3日に1回くらいは捕れたよ。まあ、捕れた時
にはたいてい死んでいるんだけどね。
あとね、コウモリ傘の支柱を加工して鉄砲作ったこともあった。紙火薬を使ってね。スズメなんかを狙って撃ったけど捕れたことはなかったな。
あれは後で大目玉喰らっちゃったよ(笑)。
畑仕事が忙しいと母が学校へ呼びに来るんだ
中学になったら帰宅後に遊ぶなんてことは全くなくなりましたね。学校は徒歩5分の宮崎中学校でした。弁当持って通いました。
3クラスあって、1学年107人、全校で300人くらいですね。宮崎小学校から上がった子がほとんどで、野川小学校から上
がってきた子が数人いました。
部活なんてなかったです。帰宅したらすぐに田畑の手伝い。母子家庭で私しか男手がなかったから、忙しい時には母が学校へ呼びに来てました。
皆、家が農家だから学校もそのへんのことは大らかでしたよ。
田んぼと畑と両方やっていましたが、割合は畑の方が多かったです。この辺りは畑が多い地域なんです。毎年4月~5月は筍の出荷が
忙しかったですねえ。宮前区馬絹寺台の人たちと一緒に、築地へ車を出していました。
我が家は兵士の面会用宿舎だったんだ
宮崎台に高射砲の陣地があったんだ。今の二葉幼稚園のあたりだったね。
馬絹郵便局は、兵隊さんが給与を郷里に送るために利用されてたんだって。
私らが住んでいた辺り、後に宮崎中学校になったところには陸軍第62部隊の兵舎があったて、近所の農家は軍用地にはならなくて、
入営者に面会に来た人の接待所になってたの。おかげで農業も続けてもよかったし、強制疎開もなかったの。
戦争が終わってから、宮崎中学校では兵舎をそのまま校舎として使ってたよ。青少年の家は、戦災孤児の収容所としても使ってたけど
、一部を中学校の講堂や体育館として使っていたんだ。本部の前のところには大きな丸い池があったなあ。
何しろ軍用地は広かったから、他にも色々な学校が使ってたよ。県立川崎工業とか善隣大学(後に明治学院大学になったね)とか、
大西学園とか、いろんなところが使っていたんだ。
兵舎の跡地は虎の門病院、宮崎中学校、青少年の家、宮前生活環境事業所や引揚者の宿舎に使ってた。今も住宅として使われているよ。
防空壕はもう残っていないね。区画整理の時に埋めたんだね。(PDF版の抜粋です)