まちのこぼれ話〈梶ヶ谷・末長・新作・千年・千年新町地域〉
ひとの心がね、あったかかったよね
田村 賢治さん
(たむら けんじ さん)
昭和5年生まれ 84歳
川崎市高津区梶ヶ谷在住
ご近所づきあいを大切にして、町会長や民生委員も行ってきた田村さん。
今も現役で畑仕事を続けています。
(平成26年8月1日)

ご自身について教えてください。
私はね、この家の四代目になるんです。梶ヶ谷・野川・馬絹・土橋・有馬の5村あって、ここは梶ヶ谷村。
当時、村には51軒が暮らしていました。初代が本家から分家した時、娘を一人連れて来てね。以来、養子をとったりなんだりしながら家を守って、
代々この家に住んで私まで続いています。
この家も昔は草ぶきの家だったんですよ。電灯も家にひとつぐらいしかなくてね。ガスもなかったし、炊事はかまどで炭や薪を使ってました。
水は井戸から汲む。お風呂にも井戸から汲んで運んでました。風呂桶は木でできたもの。小学校のころから風呂焚きを手伝ってましたね。
庭には水が湧く池もあったんです。でもカモがきてね、池の金魚を全部食っちゃったんで埋めちゃいましたよ(笑)。
ご近所づきあいはどうでしたか?
人の心がね、あったかかったよね。縁側やかまどの周りで茶飲み話をしたりね。餅つきなんかも近所どうしで手伝いあってましたよ。
せいろで蒸してねえ。味噌なんかも自分ちで作ったのを分けあってましたね。
ずーっと青年会の仲間6人くらいと獅子舞をやってたんだ。昔から受け継がれてきた獅子舞でね。でも今はできる人が2人しか残って
ないんだよ。私は太鼓をやってたんだけどね、7年くらい前に終わりになっちゃったよ。人がいなくちゃ続けられないよね。仕方ないよねえ。
そのころの仲間とは一緒に旅行もよく行ったなあ。
町内のお役目もいろいろやりましたよ。町内会長を7年。民生委員を9年。PTAは父の関係で会長は遠慮して副会長をやらしてもらいましたね。
農業のことを教えてください
耕運機みたいな機械が普及しはじめたのは、昭和30年ごろからだったな。それまではたいていのことは手でやってましたよ。で、できた作物
は自転車でリヤカー引っ張って売りにいってましたね。多摩川の向こうとか、馬絹の川端にもいったなあ。自転車でどこでもいったよ。
新宿までいったこともあった。
昭和32年にオート三輪を買ったね。車の免許は昭和31年、26歳の時にとったんだ。六角橋へいってね、三度目でやっと合格したよ(笑)。
畑はね、今も40アールあってね、主に小松菜を作っています。小松菜を年に5~6回も作ってね。冬でも作りますよ。
小松菜はね霜にあたると甘くなるんだ。もう売ってるわけじゃなくて、知り合いに分けたりしてるんだけど、とても喜ばれてね。
筍を朝掘ったのなんか美味しいの。優良農家として何度も表彰していただいて、賞状いっぱいいただいて、まとめて筒にいれてます。
私はね、働いているのが好きなんだ。身体が丈夫だから、おかげでこうやって畑仕事をできる。ありがたいことですよね。(PDF版の抜粋です)
