まちのこぼれ話〈梶ヶ谷・末長・新作・千年・千年新町〉
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そう、駅が出来て東急の区画整理が始まったら「ブル」がやってきたんだ
「ブル」が田んぼや畑を次々と壊して、宅地や道を作っていったからね。
精魂込めて手入れした畑だって「ブル」のせいで石ころがいっぱいで、とても作物なんか作れる状態じゃなかった。
時代の流れとはいえ、あの時は寂しかったね。
昔の結婚式は、家で祝宴をあげました
まず、村田家からお仲人など7人が実家に迎えにきます。
一緒に実家で門出の祝宴を済ませ、実家側から髪結いさんも共に、一行が村田家にいきます。
そして村田家について、夕方から宴会が始まります。
人の心がね、あったかかったよね
縁側やかまどの周りで茶飲み話をしたりね。
餅つきなんかも近所どうしで手伝いあってましたよ。せいろで蒸してねえ。
味噌なんかも自分ちで作ったのを分けあってましたね。
昭和46年に梶ヶ谷に越してきました
梶ヶ谷を選んだ理由は、東急のパンフレットや口コミ、そして実家の東京から車で近いということが一番でした。
当時は、梶ヶ谷のほかに逗子ハイランドパークやたまプラーザでも分譲地を売り出していて、夫は会社の同僚が多い逗子ハイランドが良いといっていましたが、私がここに決めてしまいました(笑い)。
我が家は兵士の面会用宿舎だったんだ
私らが住んでいた辺り、後に宮崎中学校になったところには陸軍第62部隊の兵舎があって、近所の農家は軍用地にはならなくて、入営者に面会に来た人の接待所になっていたの。
おかげで農業も続けてもよかったし、強制疎開もなかったの。
想い出は、影向寺の縁日ですね
当時は12月に開催されていて、家族みんなでいきましたよ。
境内や寺の周りには、見世物小屋やおもちゃ、バナナの叩き売りなどの屋台が出て、とても賑わっていました。
富士の滝ヶ原兵舎に軍事訓練に行きました
2泊3日だったと思います。16・17歳の少年ですので、夜のトイレは暗闇で怖かったですね。
でも楽しみもありました。兵舎の中の酒保には、まんじゅうなどがあって食べることができました。
「欲しがりません勝つまでは。兵隊さんありがとう」そのものでした。
何と言っても「ターザンごっこ」ですね
「熊の森」という近くの山にターザンの木や江戸見桜の木がありました。
ターザンの木は、太い蔓がからまって子どもがぶらさがるのに丁度良かったのです。
とにかく子どもがとくさん集まりました。
焼夷弾で家が焼けて怖かったですよ
家は藁ぶきだったからバーッと燃え上がって、一面火の海、母が弟を抱いて私の手を引いて、裏の田んぼを無我夢中で近所の防空壕に逃げ込みました。
とにかく、もうあんな思いをしたくないですね。戦争はやっちゃいけない。
何軒かの地主さんが土地を提供して「市民プラザ通り」が完成したのです
我が家には柿の木が5本あってね。私は5人兄弟で、父が子どもの成長を祈って一本一本植えてくれたそうです。
兄弟仲良く「これは僕の柿の木、あれはお前の柿の木だ」なんで話したりしてね。
でも、家の前に道路ができることになって、5本とも伐採してしまいました。
戦闘機グラマンが落ちた
高射砲に当たった敵機がこの地に落ちました、現在の新作団地西側です。
大騒ぎになって、本家の宮田家長男と一緒に見に行きましたよ。
飛行機の両翼からピンク色をした燃料が漏れていてびっくりしました。
湧き水があり、水車が回っていました
以前は綺麗な湧き水が噴き出ていて、畑で昼飯を食べるときにはその水を飲んでいましたね。
湧き水は冷たいんですよ。もちろん田んぼにも使っていました。
小学校に入ることまでは水車が回っていましたよ。
八幡様の反対側の広場では子どもたちがよく遊んでいましたね
ベーゴマ、メンコ、ビー玉、たこ揚げ、駒回しを遊ぶ子どもでいっぱいでした。
家の前の道で、竹をスキー板にして遊んだりもしていました。
今の市民プラザの裏には川があって、ヤツメウナギや魚も獲れましたよ。
食用カエルを南京袋に詰めて
当時は小遣いなんてお祭りやお正月にちょこっと貰えるだけだったから、小学校の高学年になると、いろいろと小遣い稼ぎもしていました。
食用カエルを捕まえて、皆の分を集めて南京袋に詰めて売りに行くの。売れたお金は皆で分配しました。
当時はお寺が保育園に
春の田植え、秋の稲刈りなど農繁期の季節には、子どもを託児所で見てもらうことがありました。
能満寺の6畳か8畳の現在の不動堂でしたね。
今でいう保育園のように、地元の娘さんが3~4人で子どもたちの相手をして遊んでくれたものです。