まちのこぼれ話〈下作延・上作延・向ケ丘地域〉

 

夏は平瀬川で1日水浴び

関口 隆雄さん
(せきぐち たかお さん)

昭和11年生まれ 79歳
川崎市高津区向ケ丘在住

市内中学校駅伝で向中を一躍有名にした関口さんに、
子どもの頃の遊びや思い出、町名の由来などについて伺いました。
(平成27年10月1日)

関口 隆雄さんの写真

駅伝のお話を聞かせてください

 

 中学校は向中(むかちゅう)(向丘中)です。 62部隊の払い下げの建物を校舎に使っていて、冬はとても寒かったことを覚えています。
足が速かったので、中学2年の時に市内中学校のマラソン大会に出て2位になりました。 向中は上位に入ったことがなかったので、2位になった時、「向中ってどこにあるの」という声がたくさんあがったんです。 この時から「川崎市に向中あり」となってとても嬉しかったです。

子どもの頃の思い出は?

 

 上作延に平瀬川の堰が3つあって、夏はそこで1日中遊びました。 身体を焼いたり、泳いだり、泳ぎはそこで覚えました。 フナ、ハヤ、ヤマメなどもいて、よく捕って帰ると、夜に母が焼いてくれて食べました。
中学生になって、先生に多摩川に連れていってもらった時、平瀬川と比べ「広~い」と雄大さに驚いたことを覚えています。 多摩川でもハヤを釣りましたね。釣竿は、近くの竹やぶに行って竹を切って自分たちで作り、 エサはうどん粉を練って丸めたものでした。
 夏以外の季節の子どもの遊びは、駒まわし、かくれんぼ、小学校5~6年生頃には野球が流行っていましたね。

まちの移り変わりについて教えてください

 

 ここは元々は向ヶ丘でなく、上作延という町名で、今も自分の意識は上作延です。 町名が変わる時に町会にかかわっていたんですが、今も自分ではその理由をきっちりと説明できないです。 区制が引かれる時に、当時、菅生、平、長尾、上作延の4地区が向丘村と言われていましたが、 上作延以外は、「向丘」という町名を残さないことになり、上作延だけが残りましたが、このあたりはよくわかりません。 ただ当時、農地から宅地化が進み、新しく移住してきた人たちが、 住宅地として町名は「向ケ丘の方がイメージがいい。上作延はいや」と強く言っていたことはよく覚えています。(PDF版の抜粋です)

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