まちのこぼれ話〈子母口・明津・蟹ヶ谷・久末・野川〉

 

小学校に持って行く弁当は

森 隆夫さん
(もり たかお さん)

昭和12年生まれ 78歳
川崎市高津区子母口在住

子母口で農業のほかガソリンスタンドを営んでいた森さん。
子どもの頃の話や町並みの移り変わりなどについて伺いました。
(平成28年6月24日)

森 隆夫さんの写真

戦争中の生活

 

 うちでは、疎開している人たちに風呂を提供したこともあります。しかし、彼らの風呂のあとは、湯が無くなっていてね、親父から「風呂を沸かせー!」と私が怒鳴られました。
 沸かした湯が熱すぎて薄めたくても、冬は冷たい井戸水を汲みに行くのが面倒で、我慢してそんな熱い風呂にジンジンと入ってましたよ。なんだか今の医学では、熱い風呂は身体に良くないって言ってるけど、いまだに、熱い風呂だねえ。

中学校の頃の思い出は

 

 子母口に住んでたので、西中原中学校に入学しました。新作に住んでる子たちは高津中学というように2つに別れました。
 その頃の遊びは何と言っても、野球ですよ。武蔵新城の野球チームから、仲間に入れよと誘われ、毎週日曜に参加しました。その頃、姉2人は嫁いでいて人手が足りず、学校のない日曜は私も農家の手伝いがあったのですが、野球仲間が呼びにくるとサッサと野良仕事を放り出して、一緒に行ってしまいました。あとで、親父がお袋にブツブツ文句を言っていたようですがね。

農家の生活は

 

 この辺の農家は、私が小学校3年生の時は、だいたい50軒くらいでした。野良仕事の主力は男手でした。親父は特に、私には厳しかったですね。その分、お袋が可愛がってくれました。1年中、働きましたよ。正月や祭りも関係ありません。正月だって、ネギの出荷がありましたからね。
 昭和30年に子母口富士見台の開発が進み、分譲住宅が建ち始めました。その頃、ついに耕運機の登場です。機械化が進み、どんどん畑仕事が楽になりました。
(PDF版の抜粋です)

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