まちのこぼれ話〈梶ヶ谷・末長・新作・千年・千年新町地域〉

 

焼夷弾で家が焼けて怖かったですよ

澁谷 一夫さん
(しぶや かずお さん)

昭和14年生まれ 75歳
川崎市高津区末長在住

民生委員や町内会副会長など様々な地域活動をされてきた澁谷さん。
まちの風景、戦中・戦後の生活の様子などを伺いました。
(平成26年8月18日)

澁谷 一夫さんの写真

小・中学校の思い出は?

 

 小学校は20~30分ジャリ道を通いました、橘小学校です。平屋建ての木造校舎、桜の古木がたくさん植えられていて見事でした。 小学校入学時の写真を見ると下駄ばきでした。
新作2丁目には日本光学(現ニコン)、富士通の社員の住宅があり何故か「営団」と呼んでいましたが、身なりや勉強の力も違いました。 校庭の中心には国旗掲揚台、二宮尊徳像がありましたが、知らないうちに取り壊されました。これはアメリカの命令だったのかなー。
 3、4年生のころは教室が足りず、午前・午後の2部授業でした、今とは雲泥の差です。
 中学1年生のときは高津中学校でしたが、1年の想い出は階段脇で昼にパンやコロッケは10円くらいだったかな、おいしかったですね。 2年生からは新しく創立された橘中学校に通いました。新校舎でしたが校庭には岩がごろごろ転がっていて、授業の時間に校庭整備をしました。 高校も楽しい3年間でした。卓球部で部活に明け暮れましたが、出ると負けでした(笑)。

戦争の頃のことを教えてください

 

 焼夷弾で家が焼けて怖かったですよ。家は藁ぶきだったからバーッと燃え上って、一面火の海、母が弟を抱いて 私の手を引いて、裏の田んぼを無我夢中で近所の防空壕に逃げ込みました。
 その時に明鏡寺や増福寺も合わせ8件焼けましたね。近くにあった軍需工場(日本光学)を狙ったんだろうかねぇ。 この辺りは比較的安全だろうって、横浜の親戚が疎開してきたんだけど、共に焼けてしまったよ。
 新作に戦闘機グラマンが落ちたことがあって、見に行ったら操縦士は連行された後でした。今の虎ノ門病院のとこに高射砲の基地があって、 天界灯で照らして撃ってるのが見えたけど、とても敵の爆撃機や戦闘機まで届いているようには思えなかったよ。負けはわかっていたんだろうね。
 家が焼けてトタンで作ったバラック小屋だったので、ラジオもなかったのかなぁ。8月15日の玉音放送は覚えていないんですよ。 材木もないし、疎開などで壊した古材で、二子の大工さんに平屋の家を建ててもらい、あちこち直して50年ほど住みました。

戦後のまちの様子は?

 

 昔はこのあたりは畑より田んぼで、道場ジャリ道でしたね。店は1軒あって、酒、食料品、燃料、駄菓子など、要するに今のスーパーです。
 そのうち畑や田んぼに家が建つようになった。親父は土地が売れるなんて信じられないって驚いてましたよ。海軍用地(現末長中町町会) は坪500円くらいだったかなあ。オリンピックがあって、田園都市線が開通して、そのころから土地の値段がどんどん上がって行きました。 大金を手に入れた人が札束を持って二子新地へ繰り出して遊んだなんて噂も聞きましたね(笑)。  田んぼのあったころはホタルもいっぱい飛んでました。イタチだのカブトムシだのもいて、自然がいっぱいでしたよ。カブトムシや クワガタはまだいるけど、数が減りましたねえ。逆にアライグマとかハクビシンなんて外来種は近年になって増えて、野菜への被害も増えてます。 ハクビシンはトウモロコシ、トマトやスイカを食べてしまって、被害が大きいんですよ。(PDF版の抜粋です)

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