まちのこぼれ話〈梶ヶ谷・末長・新作・千年・千年新町地域〉

 

富士の滝ヶ原兵舎に軍事訓練に行きました

河野 和男さん
(かわの かずお さん)

昭和5年生まれ 84歳
川崎市高津区末長在住

古文書が家に残っている河野さんに、
戦争の記憶や村時代からの続く風習についてお話を伺いました。
(平成26年7月20日)

河野 和男さんの写真

小学校時代の思い出は?

 

 千年にある橘小学校出身です。橘地区には一校だけしかありませんでしたので、新作、明津、千年、蟹ヶ谷、子母口、末長、久末、野川の 一部から通ってきていました。私達の学年は男子26名、女子40名くらいでしたので、男女共学でした。他の学年はもちろん別クラスですよ。 坂下の阿弥陀様跡前に集合して、昔の細い砂利道を歩いて通いました。遊びは手作りで、水鉄砲、竹馬、竹トンボ、兵隊ごっこ等夢中でしたね。 お正月にはケンカ独楽、凧揚げ、すごろく等に単純な遊びばかりでしたが、仲間と一緒に遊びましたね。
 遠足は、小学校1年生の時は野川にある影向寺だったと思います。それから高学年になるにつれて多摩川遊園、上野動物園に行ったと記憶 しています。6年生になると市で汽車を貸し切って伊勢・京都・奈良に参宮旅行に行きました。親から離れ旅館に泊まり、楽しかったです。 アルバムに貼ってある写真をみると、童心に戻りますね。運動会も楽しかったですね。徒競走はいつも一番でした。いつも坂道を歩いています ので、健脚でした。兄弟姉妹皆選手でした。市内の学校の運動会には、他校選手として出場しました。橘小の運動着はこげ茶でした。

戦争中はどのような学生時代を過ごされましたか?

 

 小学校を卒業して、旧制中学の法政二中に入学しました。2学期の夏だったと思いますが、富士の滝ヶ原兵舎に軍事訓練に行きました。 2泊3日だったと思います。新校長は陸軍井上中将で、その弟さんは有名な江田島にあった海軍兵学校長の井上大将とのことでした。 新校長は兵舎には黄色の旗のついた車で来られました。その時は衛兵が将官ラッパを吹き新校長を迎えました。
 16・17歳の少年ですので、夜のトイレは暗闇で怖かったですね。でも楽しみもありました。兵舎の中の酒保には、まんじゅうなどの 甘いものがあって食べることができました。「欲しがりません勝まつでは、兵士さんありがとう」、そのものでした。
 昭和19年だったと思います。自宅でゲートルを巻き、腕章を着けて学徒動員の1人として学校に集合して、隊列を組み、 歩いて向河原にある住友電気に行きました。今の日本電気です。級長の頭右の号令で歩調をとり、堂々と入門しました。工場内では男女工員 さんと一緒に指導を受けながら一生懸命働きました。美人の女工さんに可愛がられましたよ(笑)。武相中学、大西学園女学校、成美学園 女学校等多数の学校が学徒動員されていました。今思うと、自分のことですが、よくやったなと感心してしまいますね。
 宮前区馬絹には赤坂から転営した東部62部隊が、また、家から5分位の畑地の中には防空隊がありました。福島出身の人が多かったですね。 夜間にB29が上空を通るときに探照灯を飛行機に向けて、高射砲が打ちやすいように照らしていました。昭和20年4月だったと思いますが、 防空隊めがけて投下された焼夷弾が外れ、近隣民家に落ちました。その時の被害は民家7軒寺2軒が全焼しました。我が家の庭先に積んであった 稲叢にも焼夷弾の油火が飛び散り、消すのが大変でした。我が家から正面の方角に檀家寺があり、火の手があがり疎開児童の鳴き声、 先生の叫び声、思わず母親は手を合わせていました。地獄絵そのものでした。

昔からの風習は残っていますか?

 

 昔の末長村は3人の旗本の支配地でした。昔は6講中でしたが、現在は7講中あります。呼名は西から、ササノ原、カミ、スクモ、 ナカ、ダイ、ゴミョウ、オダカの各講中です。各講中は12、13軒で構成されています。
 私の住む透茂台の講中は、年1回新年会を兼ねて村組織の当番役員を確認しあっています。各家の長男の結婚式には招待されること になっています。葬儀の際は、通常は通夜・告別式2日間手伝いに行きますが、昔と比べるとだいぶ簡素化しています。役割は、 コの字型に折った竹を二人で持ち、その下をお棺を潜らせ、別の1人が鐘を鳴らしながら霊柩車まで先導します。残りの人は生花を持ったり、 お棺を運ぶ役目にまわります。納骨の際は、鐘を鳴らしながら墓地まで先導します。喪主からお清めとして1万円いただいています。  納骨・初七日のお経も終わり親族が墓参りしている間に、念仏をします。30分位です。終わると親族と一緒にお清めの会食にあずかります。 講中の者は上座の席につくのが習わしです。(PDF版の抜粋です)

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