まちのこぼれ話〈梶ヶ谷・末長・新作・千年・千年新町地域〉

 

想い出は、影向寺の縁日ですね

大久保 政二さん
(おおくぼ まさじ さん)

大正11年生まれ 92歳
川崎市高津区末長在住

子どものころから現在まで農業を続けている大久保さん。
末長のまちの移り変わりや戦争の記憶についてお話をを伺いました。
(平成26年7月20日)

大久保 政二さんの写真

子どもの頃の話を聞かせてください

 

 6人兄弟の長男です。2人がすでに亡くなっていますが、私を含めて男3人と女1人はこの近くに皆住んでいます。
 橘小学校に通いました。あの頃は尋常小学校といって、久末の子どもたちも皆来てました。同級生はだいたい50人くらいで毎年、 10人くらいの変動はありましたね。戦前までは、そんな感じでしたが、戦後は人数が増えました。でも、農家の子がほとんどです。 なんせ300軒以上ありましたから。
 農繁期は早く授業が終るんで、下校後は畑に直行して、手伝いました。稲刈りのあとの家族と食べる昼の「のら弁当」が楽しみでねえ。 弁当と言ったって、今のような卵焼きが入ってるわけでもなく、確か漬物がおかずだったかなあ。米だって麦が3分か4分入っていました。 まあ、真っ白いご飯は嬉しいことがあるような時だけですよ。
 その他の想い出は、影向寺の縁日ですね。当時は12月に開催されていて、家族みんなで行きましたよ。境内や寺の周りには、見世物小屋 やおもちゃ、バナナの叩き売りなどの屋台が出て、とても賑わっていました。
 尋常小学校のあとは、2年制の高等科に進学しました。卒業後は農家を継ぐか、仕事を見つけて働きに行くかですが、私は農家を継ぎました。 親が私が継ぐのを待っていた感じでしたから。

戦時中の暮らしぶりはいかがでしたか?

 

 田んぼで米を作り、畑で麦を作り、庭では芋などを作りました。あとは、アワやキビなどの雑穀です。本当に1年中忙しかったですよ。 なんせ、田んぼの稲を植えて、刈り取ったと思ったら、また麦まきですからねえ。そのうち、東京のほうから野菜が入ってきてね、 野菜も作るようになりました。
 昭和14、5年くらいにはキュウリやナスを作って市場に行ってお金にしました。それに伴い、養豚や酪農もしました。最初は、豚が臭くて 大変でしたが、すぐに慣れましたねえ。鶏は戦前から自分たちで食べるためだけに、5、6羽は飼ってました。
 それから徴用が来ました。川崎の小向にある自動車や飛行機などのキャブレターを作る日本企画という会社でした。今は言えますが、 水冷式部品などを作っていることは当時は秘密でした。軍需工場があり、研修生というか養成工という養成期間が3ヶ月ありました。 毎日憲兵が見回りに来て注意するんですよ。今思っても私らの仕事は役にたってたんでしょうかねえ。
 昭和18年に召集令状が来ました。今の世田谷区三宿あたりでしょうか、現在の東邦病院のところの東京騎兵1連隊に入隊しました。 検査を受けた後、帰してくれずに1週間後に北朝鮮のピョンヤンに行かされました。部隊が、歩兵隊と輜重隊(しちょうたい)とに 別れていましたが、私は車などを運ぶ輜重隊に配属されました。
 当時の北朝鮮は、裕福な人もいましたが、村は藁屋根をヒモでしばったような貧しい家も多かったです。
 仕事は、ピョンヤンで飛行場を作るのが目的でした。地元の朝鮮の人達と一緒に1日中、トロッコで砂利を引いて勤労奉仕ですよ。 その砂利が重たいのなんのって。飛行機は谷と谷の間に隠してましたが、ガソリンがないので飛ばせなかったのか、そのうちに戦争に負け、 使わなかったようです。
 幸運なことに戦争に負けるその年の1月に復員しました。終戦まで向こうにいたら、本当ならシベリア送りですよ。北朝鮮では、 爆撃や空襲はあまりなかったですから、戦争に負けるとは思ってもみませんでした。しかし、神奈川に帰ってきたら、こっちのひどさに 驚きました。一生懸命に畑を耕しても、軍需工場のために作物を供出したり、空襲の被害を受けたりで。このへんは、けっこう空襲が ありました。外の防空壕に逃げましたが、上から直撃されたら、たまったもんじゃないですよ。養福寺の北側の方にグラマンが落ちた話 は聞いてますが、実際には見てません。増福寺、明鏡寺や民家数軒が焼けましたが、この家は残りました。
 終戦は24歳のときです。本当に戦争に負けると思っていなかったのですが、玉音放送は淡々と聞きました。末長は戦前と戦後では 日本の状況の変化のようには、あまり変わりませんでした。

戦時中の暮らしぶりはいかがでしたか?

 

 夏祭りは、集落ごとにありました。お寺は明鏡寺で、神社は杉山神社です。縁日が出るほどでもなかったなあ。氷水(こおりみず)か、 饅頭を売る店が2、3軒くらいでしたね。氷水は今のかき氷のようなもので、カンナで氷をかくんです。 それでも子ども心に楽しみにしていましたよ。戦後はキャンディーを売りにくる人もいました。
 また、秋祭りは10月に杉山神社で開催され、豊作祈願をしていました。住民の演芸や村芝居、おみこしなどがありました。
 買い物は、村に1軒だけのなんでも屋の渋谷商店です。今はありません。久末には飴屋が1軒だけありました。
 末長では、広い土地に80軒くらいが散在してました。子育て地蔵のある、あの用水路の所にも人は住んでいて、田んぼに行くには かなり不便だったと思います。
 夜は街灯もないから真っ暗です。戦時中にはまだ日本光学があったから少しは、明るかったのですが、戦後は会社の寮があっても そんなに電気は使わないし。関東自動車学校の敷地から末長方面を見たら、真っ暗でしたね。あれだけ暗くて寂しい道なら、 悪い人も出ないですよ(笑)。昔の人は提灯を使っていたと聞いたことがあります。(PDF版の抜粋です)

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