まちのこぼれ話〈梶ヶ谷・末長・新作・千年・千年新町地域〉

 

昭和46年に梶ヶ谷に越してきました

高品 千鶴子さん
(たかしな ちずこ さん)

昭和18年生まれ 71歳
川崎市高津区梶ヶ谷在住

土地区画整理事業でできた住宅街に東京から引っ越してきた高品さん。
当時のまちの風景や生活の様子について伺いました。
(平成26年9月10日)

高品 千鶴子さんの写真

梶ヶ谷に引っ越された経緯は?

 

 昭和46年に梶ヶ谷に越してきました。私の実家は世田谷区下北沢、夫は杉並区荻窪です。結婚して、横浜や実家の敷地内に住みましたが、 子どもが大きくなり手狭になったので引越しを考えました。
 梶ヶ谷を選んだ理由は、東急のパンフレットや口コミ、そして実家から車で近いということが一番でした。当時は、梶ヶ谷のほかに逗子 ハイランドやたまプラーザでも分譲地を売り出していて、夫は会社の同僚が多い逗子ハイランドが良いと言っていましたが、私がここに決 めてしまいました(笑)。
 最初、母と2人で下北沢から電車に乗ってここを見にきた時、梶が谷駅で誰も降りないし、梶ヶ谷第一公園横の急で長い階段を見て、 びっくりしました。
 当時、東急がこの辺の土地を開発して分譲住宅として昭和40年頃から売り出していました。野川のほうはその10年前からですね。 この辺は、昭和42年から人が移り住んできて、うちが引っ越すときは、もう2、3軒が空家で残っていただけでした。

当時のまちの様子は?

 

 引っ越してきた頃は、二子玉川駅から渋谷まで電車が直結してなく、まだ自由が丘経由でした。住んで3年後ぐらいに直結しました。 玉電の後を新玉川線が通ることになりましたねえ。
 今のコジマ電気がある場所は昔、ドアーズという量販店があって、その更に前はボウリング場で1階に宮田家具という家具やがありました。
 引っ越してきたときは、政令指定都市になっていなかったので、高津区はなく、1年後くらいに政令指定都市になりました。梶ヶ谷1丁目は 政令指定都市になるまでは大塚町会に入っていたようです。2丁目は社宅が多かったですね。これは62部隊の国有地を一部建設省の社宅にした と言われてます。戦時中は、虎ノ門病院や宮崎中学校には兵舎があり、今の青少年の家は将校のゲストハウスとして使われていたそうです。 私の父が軍人でしたので、私の引っ越す場所を聞いて「もしかしたら、62部隊のそばではないか」と言われましたが、そのとおりでしたね。
 引っ越してきた当時は3~6丁目で梶ヶ谷町会が構成されていて、その1年後くらいに4丁目が独立して町内会を作りました。
 梶ヶ谷の地元の人は、尻手黒川道路に沿って住んでいて、駅に近い方に分家、山だったこのあたりに新住民が住んだという感じではないで しょうか。
 子どもが小さかった頃は、駅の近くは自然が豊かで、田んぼにはザリガニ、草むらではバッタがピョンピョン跳ねてましたよ。公園のノビル や土筆で佃煮も作りました。切通しの道を通って、生田緑地までよくハイキングに行きましたよ。
 踏切がないのも良かったですねえ。実家の下北沢は踏切が近くにあって、子どもの姿が見えなくなると、踏切に行ったのではないかと 大騒ぎしてましたから。

「新住民」としての暮らしぶりは?

 

 当時は、すぐ近くの梶ヶ谷マンションというところに店ができたばかりでしたので、買い物はそこでしました。今のセブンイレブンの ところです。肉や野菜などすべて売っていたのですが、週一の休みの日だけは買い物ができなくて困りましたねえ。それこそ、店といったら、 駅の売店しかないのですから(笑)。駅の周辺に最初にできた店は、東急ストアで、次に写真館、次に洋菓子屋さんでした。 高津郵便局は住んで10年くらい経ってからできたのですが、便利になりました。
 この辺りで免許を取る主婦が多くなった理由は、買い物するところと病院がなかったということだったからではないかと言われています。
 東急ストアができる前は、電車で溝口に出るか、車で武蔵新城方面にあるスーパー「ライフ」になる前の「松阪」という店に買いに行って ました。この辺で生協がさかんですが、昔から野菜の直売所もなかったので皆で生協に入会したからです。
 近所付き合いは、新しく入ってきた人々同士でしたし、人も少なかったのでうまく付き合えました。 (PDF版の抜粋です)

昭和47年、梶ヶ谷第1公園前で遊ぶ子どもの写真

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