まちのこぼれ話〈二子・瀬田・諏訪〉

二ケ領用水を泳いで学校から帰りました

戸張 晶康さん
(とばり てるやす)

昭和15年生まれ 73歳 
川崎市高津区北見方在住

赤フンで泳ぐのが子どもたちの憧れだった昭和
20年代、多摩川の豊かな自然とともに育った、
戸張さんのお話
(平成25年1月17日)

戸張 晶康さんの写真

ご自身のプロフィールを

 

生まれも育ちも北見方です。北見方では、町内会副会長、民生委員を務めました。  昭和21年高津小学校に入学しました。当時は二宮金次郎の像が立っていましたね。ここからは学校までは、歩いて40分かかりました。特に集団登校もなく、兄弟でブラブラ登校しました。4年生のときに新しくできた東高津小学校に転校しました。校舎の裏門が開いていたので、歩いて10分で行けました。  中学は高津中学です。運動では、短距離走が早かったです。時間を忘れて遊んでいると、先生から「ずっと遊んでいろ!」と連帯責任で皆、ビンタされました。  県立多摩高校に進み、工学院大学機械科に入学しました。大学が新宿にあり、よくマージャンをしました。就職先は、システムキッチンで有名なサンウエーブという会社です。出向先の会社で定年を迎え、60歳からは梨作りです。  不思議なことに、東高津小学校、高津中学も新校舎、多摩高校も1期生、サンウエーブも新規工場というすべてが新しい尽くめの人生でした。

小学校時代の思い出は

 

小学校では先生からビンタされるなんて毎日のことでした。それをもし親に言いつけたら、またビンタですから、もちろん黙っていましたよ(笑)。  昼食は、弁当に麦飯を持っていったのを覚えています。母が麦と米を混ぜて炊くのですが、米より軽い麦が上の層になって炊き上がります。 それを、母が下の方の白米の部分をわざわざすくって、詰めてくれました。その後、給食になり、コッペパンや脱脂粉乳や鯨の肉が出ました。  冬は今よりも、もっと寒くて雪が降り、1m近く積もったでしょうか、雪遊びをしましたねえ。庭で芋を焼いて、焼き芋をかじりながら登校しました。

昭和30年頃の多摩川での水浴び風景の白黒写真

小さなときから、梨畑で遊んでいました。でも、昭和39年頃、オリンピックのために第三京浜道路ができたのと、相続税対策で梨畑はどんどん消えていきました。  二ヶ領用水ではよく泳ぎました。1m50㎝の深さで、流れがとても早かったです。高津小学校の頃は、朝は普通に歩いて登校するのですが、帰りは1人がカバン持ちになり、皆で泳いで帰りました(笑)。当時は、皆がつけていた赤フンで早く泳ぎたくてねえ。  旧二ヶ領用水を「古い川」、新二ヶ領用水を「新しい川」と分けて言っていました。旧二ヶ領用水は、すでに道路になっていますが、昔はザリガニ、亀、食用カエルが獲れましたし、洗濯など生活用水としても使っていました。(PDF版の抜粋です)

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