まちのこぼれ話〈二子・瀬田・諏訪〉

写真館を継いだのは自分の宿命だと思ったから

鈴木 克明さん
(すずき かつあきさん)

昭和19年生まれ 69歳 
川崎市高津区溝口在住

大山街道で写真館を営む鈴木さん。
写真館の歴史は家族の歴史でもありました。
(平成25年10月18日)

鈴木 克明さんの写真

どんな子ども時代をお過ごしですか

 

 大山街道沿いの株式会社「写真のたなかや」2代目社長です。
 ここで生まれ育ちました。
 幼稚園は洗足幼稚園に通い、舗装されていない砂利道を30分歩いて通っていました。この砂利道を通る車が石を跳ね飛ばし、店のウィンドウが割られたこともありました。
 洗足小学校に1年通い、2年生から世田谷区の尾山台小学校に通いました。母が女手ひとりで経営している写真館でしたが楽ではなく、私立より公立に通わせたのです。当時店の前の高津小学校は一学年3部授業でしたが、尾山台小は2部制でしたので転校しました。洗足幼・小時代は友達もいましたが、尾山台小に転校してからは、授業が終わったら遊ぶ時間もなく、すぐ帰宅し店番をしていました。そのため友達もあまり出来ず母子2人の生活でした。学校の宿題で電灯の光が黄色く、地図の黄色い線の部分が見えなかったことを覚えています。正月は母が写真館の仕事をしていましたから、隣りの商店の男の子と遊んだりしました。
 教育熱心な親で、登校する前に漢字練習をさせられたり、家庭教師もつきました。そのせいか、成績が良かったのでしょうか、尾山台中学、玉川高校では入学式の挨拶を朝礼時、新入生の代表でしました。いまだに中学高校のクラス会を開いています。
 秋祭りやお会式では、母から屋台の食べ物を買い食いしてはいけないといわれ、また、多摩川も危険だから泳ぐなと言われていました。

お店を継いだいきさつは

 

 小学校5年のときに10年間闘病していた父が亡くなりました。中学生になると、写真の修整を頼みに1週間に2~3回、目蒲線で蒲田・女塚の修整技師さんまで頼みに行っていました。縁とは面白いもので、この修正技師のお孫さんが、偶然当店に勤めたこともありました。
 私は最初から写真が好きで継いだのではなく、高校3年で進路を考えた時に家業を継ごうと決めました。
 大学は日大芸術学部と東京写真短期大学と、どちらに入学手続きをしようかと迷いましたが、修整の授業のある東京写真短期大学に決めました。卒業後大井町にある成瀬写真場で1年間修行しました。

 昭和41年家に戻り、母と一緒に仕事に入りました。その後助産婦の吉野寄里枝と結婚し、従業員も入れ、頑張って店を大きくしてきました。商店街の副会長、協同組合日本写真館協会副理事長や、今は解散しましたが、社団法人日本婚礼写真協会副会長なども経験しました。今は川崎写真師会会長、神奈川県写真師会副会長を務めています。
 今、30歳になる息子が「写真にあまり興味がなかったけれど宿命だ」とやはり私と同じようなことを言って継いでますよ(笑)。(PDF版の抜粋です)

写真のたなかや前での平成24年度区民祭、納太刀パレードの写真 

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