まちのこぼれ話〈二子・瀬田・諏訪〉

大きなお釜も実際に使っていたんですよ

飯島 悠光さん
(いいじま ひろみつさん)

昭和20年生まれ 68歳 
川崎市高津区二子在住

大山街道の名物になっている
飯島金物店の大きなお釜と特徴ある建物。
その由来やまちを盛り上げる活動のお話。
(平成25年10月7日)

飯島 悠光さんの写真

ご自身のプロフィールを

 

 生まれも育ちも二子のこの家です。幼稚園から洗足学園に通園して、小学校3年のときに新設された文教小学校に転校しました。その後、受験して中学から一貫校で学び、大学卒業から二年後にこの店「総合金物・飯島商店」を継ぎました。
 店を継ぐにあたり、見聞を広げるために大阪で働こうと思い、川崎の商工会議所で紹介状を書いてもらいました。それを持って、金物を扱っている大手の商社を訪ね、1年半勤めました。
 どんどん現場に出て働き、大型スーパーにセールスしたり、遠くは姫路まで営業に行きましたよ。この1年半は本当に貴重でした。人に使われないと、使われた人の気持ちはわからないと思いました。

その「飯島商店」の歴史をお聞かせください

 

 飯島家の二男であった私の祖父は、明治31年、多摩区の長尾からこの二子にきて居を構えたと聞いています。その理由は、この辺は多摩川の水が一部流れて沼地になっていて、商売をするのに、土地が安かったからだそうです。多摩川の水の関係から、酒造メーカーなどもあったと聞いてます。
 祖父はここで、よろず金物屋としてスタートしました。いわゆる、金物をはじめ米や味噌など何でも扱うような店です。子ども時代はこの辺はほとんど田んぼで、農家を相手にしていましたので、鋤(すき)や鍬(くわ)なども扱っていました。当時は、精米所も近くにあったそうです。そのうち、大正時代になると、専門の職人さんを相手に金物を売りました。特に二子通りには、特に家を建てる専門の職人が集まってきました。なぜなら、1人の大工の棟梁の下に屋根屋、ガラス屋などが集まってきますからね。この近くの大亀工務店もお祖父さんの代からやっています。いまだに材木屋さんも、マンションの裏になってしまいましたが、ありますよ。

特徴あるこの商店の建物は

 

 この店は、関東大震災後の大正14年頃に、吉崎建設の先々代に建ててもらいました。合掌作りで、もう85年くらい経ってますが、3・11の大地震のときもびくともしませんでした。
 この屋根は瓦のように見えますが、トタンです。梁などは古材を削り直して使ったそうです。その後一度だけニスを塗っただけです。

お店の前に置いてあるシンボルの大きな釜の由来は

 

 戦前の昭和18年に、鍋や釜の宣伝用に500キログラムの鋳物で作ったそうです。その後、戦争の金属類没収で供出しました。戦争が終わって昭和23年頃に、先代がまた同じ物を宣伝用に作りました。大きいといっても、実際にあの大きさの釜はそれなりに竈を作り、使われていたんです。染物屋が、染色をしたり、醤油屋が大豆を煮たり、その他、クリーニング屋、はては野戦病院が手術用のメスを煮沸消毒に使ったそうです。(PDF版の抜粋です)

飯島商店前の大きな釜の写真 

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