まちのこぼれ話〈二子・瀬田・諏訪〉

昔の多摩川は本当にきれいだった

石塚 卯三夫さん
(いしづか うさおさん)

大正13年8月15日生まれ 89歳 
川崎市高津区久地在住

生まれも育ちも高津区で、溝口から二子、久地に住まい、地域を知り尽くしたガキ大将の石塚さん。
現在は1日1万歩歩こう会会長をつとめられています。
(平成25年9月2日)

石塚 卯三夫さんの写真

ご自身のプロフィールを

 

 溝の口生まれで戦後は、久地に住みました。一時、結婚して二子新地に引っ越しましたが、また久地に戻り現在に至っています。
 尋常高等小学校卒業後は、市内の電気メーカーに就職し午前中は働き、午後は技術系の学校に通う生活でした。その後、少年兵として軍隊に入隊、終戦は伊豆七島の新島でむかえました。帰還してからは、警視庁に勤めましたが、縁あって製薬会社に移りました。結局そこで定年まで勤めその後も子会社で、75歳まで働きました。
 私の父の出身は久地神社のあたりで、日露戦争を経験していました。そろばんなどの計算が速く、その血は私も受け継いだと思っています。
 母の出身は世田谷で、「とにかく、本を借りてでも勉強しなさい」と勉学を重んじる人でした。
 日々、両親には感謝して拝んでいます。
 私の子ども時代の親や大人たちの暮らしぶりは、
1、農業が中心でした(小作人)
2、多摩川の河原の砂利採掘
3、河川の工事関係
など生活の基盤は多摩川でした。

その時の多摩川の様子をお聞かせください

 

 昔の多摩川がいかに美しかったかは、子ども心にも自慢したいほどでした。久地の梅林のお花見から、夏の鮎漁、二子玉川の花火は三尺玉の大きなのが上がり驚きました。屋形船で遊ぶ都会人を見て羨ましくも思いました。水がとっても綺麗で、鮎、やまべ、はや、なまず、うなぎ、せいぞう等、この地ではこのように呼んでいました。この美しい景色に作詞家、小説家も移り住んできました。
 多摩川の砂利舟は有名で、兵庫島の手前から久地の河原では質の良い砂利が取れ、その砂利を下流の小向(川崎)まで二人から三人の船頭さんで急流を漕いでいきました。一番の難所は二子橋の下と父は言っていました。

多摩川の砂利運搬に使われた舟の白黒写真(昭和20年代後半) 

町の様子は

 

 大山街道沿いは二子橋から片町(下作延)まで全てのものが揃う商店街、近郷、近在、東は小杉から、西は菅、登戸、北は玉川、喜多見、用賀、南は宮前、荏田等からこの商店街を利用しました。今と比べると本当ですかと言われてしまいますね。
 街道沿いには、魚屋さんが五、六軒、家具屋さん三軒、呉服屋さんが四、五軒、下駄屋さん、酒屋さん、金物屋さん等大きなお店やさんがありました。町の人たちの職業も、大工さん、とび職、畳屋、建具屋等全てのことが高津の町で済んでしまうという便利な町でした。醤油、お酒、味噌、等子どもがお使いに行くと、店のおばちゃんが顔を覚えていておまけをしてくれたことがありました。
 私が住んでいた地域には古くから屋号があって、念仏屋、うなぎや、やがしら、土手ね、油やさん、面白いところでは、風船、お伊勢宮、お午やさん、車屋さん等いまだに通用しています(PDF版の抜粋です)

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