まちのこぼれ話〈二子・瀬田・諏訪〉

砂利道の大山街道を牛車が肥引きしてました

斉藤 二郎さん
(さいとう じろうさん)

昭和7年生まれ 81歳 
川崎市高津区二子在住

川崎市社会福祉協議会の会長を務める斉藤さん。
梨畑の思い出から農地解放の歴史まで
語ってくださいました。
(平成25年9月30日)

斉藤 二郎さんの写真

ご家族について教えてください

 

 私の生家は、現在の斉藤歯科がある場所(二子2丁目)です。斉藤家はもともと本郷の公家だったようです。小黒家から養子に入った私の祖父が斉藤家を継ぎました。明治初めに発令された徴兵制度では、長男は兵役免除、次男以下は兵役があったのですが、養子に入って家を継げば兵役が免除されました。小黒家の三男坊だった祖父が夫婦養子で斉藤家に入り、今の斉藤歯科のところで居を構えたのです。
 小黒家から斉藤家に養子に入った祖父、斉藤彦太郎はなかなかの商売人で、まだ煙草が民営だったころ、きざみ煙草を製造していました。相当の人数の職人を使ってやっていたようです。毎年大晦日は、朝暗いうちから家を出て、千葉の成田山まで初詣に行き、御百度を踏んだそうです。今でも成田山には祖父が寄進した石碑が残っています。初詣の帰路は、神奈川県の秦野まで回り、煙草の葉を買い付けて帰ってきました。夏に収穫できるものを先払いで買い取っていたそうです。明治時代はこの辺りには銀行がなくて、日本銀行と取引していたそうです。明治初期から手形小切手を使っていたというのですから、相当商才に長けていたのでしょうね。
 父親は男の兄弟が3人、女の姉妹が3人。私の親父が長男でしたが「おまえは家を継ぐのだから、そんなに勉強する必要はない。とにかく家のことを一生懸命やれ」と、いわれたそうです。祖父はその当時から能力別主義、能力別教育。女の子も女学校まで行かせました。「教育は人を作る」という主義で、斉藤家はとにかく教養を身につけなさい。財産は使ってしまえばそれで無くなってしまうけれど、個々に身につけたものは消えないということで。祖父のそういう考えが父親にも受け継がれていたのでしょう、能力別に教育を受けさせてくれました。

小学校時代の様子はいかがでしたか?

 

 私が小学生のころは、梨山や桃山でとれた果実を箱に詰め、リヤカーで東京の用賀や上馬、あの辺の市場まで売りに行っていました。正確にいうと中里っていうところ、上馬から三軒茶屋の間辺りです。現在、高島屋のある辺りが旧道で、くにゃくにゃ曲がっていて坂道があったのです。こちらから行くと大山街道の二子橋のたもとにおそば屋さんがあって、交番があったところの坂。その坂は梨や桃を積んだリヤカーなんか、ひとりじゃとても動かなくて、後ろから押す手伝いをしてお小遣いをもらっていました。行きはリヤカーを押して、帰りはリヤカーに乗せてもらって。あと、用賀にも坂がありました。二子玉川の坂が特に大変でした。だから子どもでも何でも後ろからリヤカーを押してもらわなきゃ登れなかったのですね。朝早く、学校へ行く前に手伝いをしていました。

 梨畑には囲いもあって、収穫期には中に番小屋もありました。夜になると梨泥棒が一本の木まるごと盗っていったりするので、私も一度番小屋で見張っていたのですが、夜真っ暗になったら怖くなって家に帰っちゃった。「そんなことじゃ駄目だ。夜盗りに来るのだから」って叱られました。子どもたちなんかは多摩川に泳ぎに行く帰り、まあ出来心でちょっと盗るのは大目に見ていたようです。(PDF版の抜粋です)

兵庫島近辺の桃山の白黒写真 

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