まちのこぼれ話〈二子・瀬田・諏訪〉

昔は旦那衆がいて文化が育ってたよね

英 径夫さん
(はなぶさ みちおさん)

昭和10年生まれ 78歳 
川崎市高津区向丘在住

高津市民館で社会教育に携わる傍ら、
長年まちの様子を写真に収めてきた英さんのお話です。
(平成25年11月29日)

英 径夫さんの写真

ご自身について教えてください

 

 生まれたのは、東京の神楽坂。
 空襲で家が焼け、あちこち転々として、最後にたどり着いたのがここ。昭和20年の10月からこちらに来た。住んでいたのは二子の大貫病院の裏で、253番地っていっても今の人はわからないかな。逆に今の番地は知らない(笑)。子どもだったから細かいことは解らないけど、父親が戦時中、今の消防署の前のあたりの工場に徴用されていた関係で、この辺に来たんだと思う。

こちらに越してこられた頃の印象は?

 

 東京からこちらに来る前に、2~3カ月茨城にいたから、ここへ来たときも田舎とは感じなかったけどね。ただ、荒れているなぁ~と思ったね。というのも、あちらこちらに焼夷弾のかけらが落っこちているし、壊れた家もずいぶんあるし。その前にいた茨城は、空襲にあっていないから、昔ながらの農家、田園風景だった。
 いっぱい落ちている焼夷弾を拾ってきてドブ板の代わりに使ったりしてね。再利用していた。六角形の筒だったから、縦に渡して並べるとどぶ板にちょうど良いんだよね。

子どもの頃の遊びは?

 

 多摩川で泳いだよ。で帰りには辺りのガキ大将にいじめられたんだよ(笑)縄張りがあるんだ子どもなのに。二子の子はだいたいこの辺だとか、ってね。そこから下流になると瀬田や諏訪の縄張りだから、出て行け~って威嚇されてね。瀬田や諏訪を仕切っていたガキ大将がいた。二子を仕切っていたのはいなかったなぁ。小粒なのばっかりだったから(笑)ボスがいなかったんだよね、腕白坊主が。その土地で代々生まれ育ってきたヤツがボスにならないと、絶対駄目だからね。
 二子新地のほうも、中学時代は遊び場所だったね。かくれんぼしたり鬼ごっこしたり、料亭街は入り組んでいて、車が通れないところがあったから、便利なんだよ。今は蓋をしちゃって暗渠になっているけど、川が流れていてね。ここにね、料亭が竹で編んだ籠にウナギだのそれこそ鮎だの魚をいれていたんだ。でっかい籠。それを盗りに子どもが行くんだ。いたずらでね、籠のなかに入っているウナギだとかを黙って盗ってきちゃう。

写真を多く撮られていますが、写真館をされていたんですか?

 

 写真館じゃないけど、その日暮らしの生活資金を稼ぐために頼まれたら出かけていって写真を撮っていたよ。うちは写真機を持っていたから重宝がられて、現像したり、引き延ばししたり。あの頃二子の花街は結構商売になったんだよね。旦那連中が来て、記念撮影するから写真屋すぐ来いって呼ばれてね。高津に公民館ができたばっかりのときは、芸者さんの発表会を撮影しに何年か行ったもんね。今児童公園の、あそこ。あそこにかまぼこ形の。お客さん400何人くらいで満タンになる公民館。あそこで芸者衆の発表会もやっていた。(PDF版の抜粋です)

着物を着た芸者3人の白黒写真 

PDFで全文を見る

地域別へ戻る